話しは戻ります。
この時、関ヶ原に集結した島津家の軍勢は
1000と云われています。
その内の300とは、各々、陣触れを聞いて
自発的に薩摩から走って
関ヶ原まで来たんです。
その中に、剛勇で知られた中馬大蔵という
名物の家来が居ます。
朝鮮の役でも、武功を立てた人です。
この人は畑仕事をやっていたのですが、話を聞くと、畑に刺してあった槍を引き抜き、
直ぐそこから走りだし、前を行く人を打倒して鎧などを強奪し、走りに走って
関ヶ原まで飛んで来たという人です。
他の人も同じで、陣触れがあって動いてるのではなく、自発的なものです。
関ヶ原でも生き残っています。こういう人が大勢でした。
ですから、あの退却戦が敢行できたわけです。
関ヶ原から薩摩に着いた時、生き残ったのが、僅か60人となっています。
薩摩には、この関ヶ原の退却の様子が歌になっています。
「妙円寺詣り」の歌。
唄う時は、ある時は吠え、ある時は泣き、非常に勇壮なものだそうです。
『薙げど倒せど敵兵の 重なり来たる烏頭坂 たばしる矢玉音凄く 危機は刻々迫るなり
骸も染みて猩々緋 御盾となりし豊久を 見るや敵兵且つ勇み 群り寄する足速し』
島津義弘が祭られている妙円寺に、薩摩武士達は、毎年この日になると、
甲冑を着て、鹿児島市から妙円寺までの20キロ以上を夜を徹して歩き、
早朝に妙円寺に集まったそうです。
関ヶ原の記憶を後世に伝えるために、江戸時代に始まった薩摩藩の行事です。
また、彼らはそのまますぐに鹿児島まで歩いて帰って、その日は通常通り
公務をこなしたとも言われています。
西郷隆盛や大久保利通もこの妙円寺詣りに参加していたという。
妙円寺 義弘が祀られています。明治になり徳重神社。
又、関ヶ原のこの退却をした日は、青少年は必ず、
関ヶ原戦のゆかりの寺社等を巡り、そして、関ヶ原の戦いの話を
御先師(古老)に聞くのが吉例となっていました。
「関ヶ原のお話を聞きとうございます」といい、古老が話し始めますが、
古老は「関ヶ原は、・・・」というだけで涙ぐみ、聞く若者も泣くといった
非常に素朴な教育でした。
しかし、これが江戸時代通じて行われ、又、郷中でもそうでした。
こうして、鎌倉古武士の精神を伝えて行ったのです。
後日談として、中馬の家は大変貧しく生活にも困る家でした。
或る日、奥さんが到頭、食べる物が無くなったと、中馬に云うと、
彼は、年貢米を運んでいる一行を停めさせて、この分は、俺の物と云って奪います。
当然、大騒ぎになり、切腹は免れないとなります。
そこで、大殿の島津義弘が出てきて、涙を流して、重臣に命乞いをします。
乱暴者でしょうのない奴だが、命を助けられたことも有り、武功も有る。
こうなったののは、自分の所為である。どうか、助けてやって欲しいと懇願されます。
殿に懇願されたら仕方ありません。重臣一同は認めたと云います。
これが、島津家の家風です。戦士意識が強烈で、これは、何百年という歴史が積み重なり、
蓄積された郷中教育(ごちゅう)、風土によって作られたといえます。
武士とは?という意識が鮮明でした。
薩摩武士は、西南戦争で消え去りました。
木強者(ぼっけもん)この言葉は、薩摩で若者の憧れでありました。
意味は違いますが、会津と似ているところは多いと思います。
例えば、組織的に動く事です。他藩と違って個人が前に出てこないです。
ただ、決定的に違うのは、教育水準の高さでしょうか。
幕末の会津藩の教養の高さは全国レベルであったでしょう。
そして一番違うのは、会津家の家祖・土津神(はにつこう)保科正之の精神である、
徳川宗家の為には、身を投げ出すことが第一であるという家訓でした。
会津家家訓15条
一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。
若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。
土津神社(はにつじんじゃ)
それに対して、薩摩藩は、貧しい郷士が中心であり、例えば、桐野利秋などは、
「おいが、字を書けたら、天下とっちょる」、と言っていたくらいですから。
その代わり、どうしたら勝てるかという事を考えることについては、
薩摩が単純であり、上であったような気がします。
話は違いますが、薩摩隼人という言葉が有ります。
本居宣長の「古事記伝」では、隼人の事を「優れて敏捷(はやく)猛勇(たけき)
がゆえにこの名がある」と、あります。
勇人というのは、古来から戦場では勇猛果敢でした。
奈良時代の頃から、天皇の即位の時には、必ず、大隅と薩摩から隼人を呼び
宮門の護衛にしていたそうです。
その責任者は隼人司と呼び、最近、奈良の平城京跡から「隼人の盾」
というものが発見されたそうです。
幕末になっても、天皇の即位式には、その儀式に参加していた。
薩摩弁というのは、興味あるものが多い。
例えば、「たちんこんめ」という言葉があるそうです。
これは、「直ぐにやれ」という意味だそうです。
「太刀」が、面に来る前にやらないと、やられてしまう。
文字通り、刀がテーマになっていて、判りやすいです。
参議・大久保利通が、明治期役所で案件を決裁する時、
ダメなときは「御評議になりますまい」といい、
直ぐに実行したい案件は、この言葉を使用したそうです。
坂本竜馬は、日本で最初の新婚旅行をしたと云われています。
鹿児島の湯浸温泉に行ったものですが、当時は、山奥であり
行くのも大変だったようですが、最近は、僻地と云われたこの温泉も
道路が整備され近くなって、新婚客の利用が多いそうです。
塩浸温泉
で、その温泉に入った熟年の新婚カップルの感想の句を1句。
「妻の顔 湯煙りの中で 皺も伸び」
薩摩弁に直すと、
「かかんつら ゆけむいなかで しわものびっ!」
素晴らしいですね。

