田代宿・追分 右長崎 左久留米
田代(対馬藩領)-轟木ー中原ー神埼ー境原ー佐賀ー加瀬ー牛津ー小田ー辺田
ー塩田ー嬉野。
以上が佐賀藩領。
田代宿

江戸時代、田代(たじろ)と呼ばれました。
宿の周囲には濠が回っていて、濠までは下町、そこからは外町。
外町は、明暦元年(1655)街道が付け替って作られた。
基山・田代地区は、対馬藩宗家の領地で同藩の穀倉地であった。
対馬藩の代官屋敷跡や、高札場跡、本陣跡が残っている。

代官は寛永12年(1635)以来、対馬から派遣されてきた。
代官の職務は、この地で取れた年貢米7千石を対馬に送る事であり、
それだけに年貢の取り立ては厳しく、江戸時代は度々一揆が起きている。
対馬初代藩主 宗義智
中には、副代官の加島平介のように農民の生活困窮を助けようとして、
その当時行われていた赤子の間引きや妻を下女として身売りする妻売りの風習を禁止しようとし、
利子を引き下げさせ年賦による借財整理を行わせ、1605軒の借財を持っていた家の内、
1425軒の借財整理に成功させ、身売りされていた294人の内、男・114人、女・108人の
開放に成功したといわれる。
しかし、加島のような役人は少なく、その後も年貢徴収に苦しめられた農民は
越訴や強訴がしばしば起こっている。
対馬藩は、10万石の格式で準国主の体面を保っていた。
しかし、生産力が低く、水稲が取れにくい為、人口3万2千に対して、生産が間に合わず、
自領では1万8千人の生産高しかない為に、筑前からの買米や、
田代からの年貢米、朝鮮からの輸入米などで遣り繰りしていた。
一方、対馬藩が独占していた対朝鮮貿易を通じて入手した朝鮮人参などの
薬種を生かして製薬・売薬業が発達した。
日本で流通していた薬用人参には「朝鮮人参」「唐人参」「和人参」があり、それぞれに座が設けられた。
朝鮮人参は、朝鮮から輸入した薬用人参である。対馬藩が一手に輸入、販売を手掛けていた。
同藩は江戸屋敷などでも人参を販売していたが、延宝2年(1674年)には幕府の許しを得て
江戸に座を設けた。
この座は徹夜行列もできたほど盛況であったが、宝永7年(1710年)には
幕府から座での小売を停止するよう命じられた。
素保頃の江戸の薬の値段はというと、
「江戸物価事典」によると、1包みの値段。
「にきび、肌荒れの薬」・・・・32文
「りん病の薬」・・・124文
「たん、せきの薬」・・・32文
朝鮮人参 228,000文。
これは、大工さんが飲まず食わずで働く2年分の給料です。
親の病気を治すために、娘が身売りしたという噂がかなり出たそうです。
サロンパスで知られる久光製薬は、その最たるもので大きいものである。
薬種問屋
又、現在でも盛んなものに、この田代の地に、
江戸時代中期に起き、
くすりを作って各家庭へ預けて商売する「配置売薬」でした。
元々、富山の薬売りが入っていました。
そのノウハウを学んで九州全域に広がり繁盛しました。
富山、大和、近江売薬と並んで、
四大売薬のひとつとなりました。
ですから、鳥栖市には薬の博物館が有ります。
佐賀の代表薬として、「朝鮮名法奇応丸」がある。
又、「鳥犀円」は、寛政八年(1796)藩から販売独占を認められ、
調合製薬を行い、現在も存続している。
『中冨記念くすり博物館』
そこには、田代の売薬人の行商衣装や伝統的な製薬の道具、薬の看板など、
田代売薬の歴史を物語る数々の資料、そして、世界と日本の薬の歴史が飾られています。
その先に行くと、道が二股に別れて、真ん中に追分石がある。
「左 久留米」と書いてある。
街中の道を進むと、左手に八坂神社や恵比寿大黒天の石像がある。
江戸時代は瓜生野町と呼ばれ、今の鳥栖市の中心である。
西清寺
天正年間(1573~1591)勝尾城主・筑紫広門が側室の病気が治ることを祈願して
植えられたとされる大きな銀杏の木がある。
高さ32m、樹の大きさ5.4mある雌木で多いときには約1.2トンの銀杏がとれたとある。
その先は轟木川、対馬藩領はここで終わりで、対岸は佐賀藩領である。