鳴瀬宿

   鳴瀬宿跡

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六角川上流の鳴瀬山の麓にあった鳴瀬宿は、水陸両方の交通の要衝で、

川沿いには家や商店、問屋などが並び、家並みの裏側にある港から

船が盛んに往来をしていたといいます。


本陣は、浄土真宗・西岸寺で、こちらは杵島山に猟に訪れる鍋島藩主の休憩所でした。

藩主専用の玄関があり、鍋島の紋(杏葉紋)が刻まれています。

殿様の雪隠は青々とした杉の葉が敷き詰められていた。



問屋、商店、宿屋などが並び、継ぎ場、高札場などもありました。


嬉野から塩田、鳴瀬、北方へのルートは、度々、水害で交通不能になった為に

嬉野から塚崎を経て北方に至る道が開発された。

この結果、鳴瀬宿は寂びれていきました。

それだけに街道の雰囲気は残っている。

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塩田宿

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有明海に注ぐ塩田山の上流に位置し、有田、波佐見への水上運搬で栄えた。

有明海の干満の差を利用し、陶磁器やその原料となる天草陶石、肥料、農産物などの

積下ろし、積上げ川港として発展した町でした。


重厚な土蔵造り旧商家が建ち並び、江戸期に遡る町割や地割、街路、水路、

居蔵造の町家といった歴史的・文化的財産が継承されています。


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塩田宿は、街道の宿場町であると同時に津(港)としての顔を持っていたため、

別名「塩田津」とも呼ばれていました。

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塩田川はたびたび氾濫し、旅人はそのために足止めされたので、

宝永2年(1705)に塚崎(武雄)を経由する柄崎道がつくられました。


塩田は陶器の町である。

『世界最大の水がめを産しオランダ人は大量に購入し、ハタビヤ(現ジャカルタ)に送り、

東インド諸島で有利に販売する』とツンベルクも記している。


鍋島支藩・蓮池藩は飛び地のここに西目役所を置き、武家屋敷を建て、

藩校を開くなど、さながら城下町のようだったという。


女の子美人の産地だという。


ケンペルも「塩田村に一泊した。ここは煙の多い村だった」と記しています。
これは、陶器を造るのに使う火の事なのでしょうか?
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江戸時代には草葺き(くさぶき)屋根の家が主流でしたが、

たびたび大火や水害に見舞われた経験から、外壁を漆喰(しっくい)で塗り固め、

防災措置を講じた居蔵家(いぐらや)と呼ばれる瓦葺き(かわらぶき)

大壁造りの町屋へと代わっていきました。


この居蔵家(いぐらや)の家が塩田の特色であり、かって繁栄していたという名残でもあります。
現在 居蔵家(いぐらや)造りの家は17軒残っており、その中で12軒は江戸時代に

造られたものです。

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又、この塩田は物づくりの職人の町でもありました。

和紙の手漉(てすき)職人、鋸(のこぎり)を作る鍛冶(かじ)職人、

石造物を作る石工(いしく)職人などが多くいました。

やわらかく加工しやすい「塩田石」を使って塩田石工職人が造った

仁王像や眼鏡橋などが残っています。

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代表の家が西岡家である。天保14年に作られたという。

白壁の漆喰が目立つ塩田宿屈指の廻船問屋だった。

天保15年(1844)には陶器商鑑札を受けています。


「西岡家住宅(国指定重要文化財)」や

木造3階建ての大型居蔵造の町家「杉光陶器店(国指定有形登録文化財)」など

当時の栄華をとどめる建物が残っています。

西岡家住宅も杉光家住宅も表は長崎街道、裏は塩田川に面していました。

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