上原城から諏訪上社方面を望む
標高1119mの永明寺山の眼下には、諏訪湖と
諏訪平が広がっています。
この景勝の地に上原城はありました。
天文4年(1535)諏訪大社の神官でもあった諏訪頼光は、信玄の父・信虎と相互不可侵条約を結び、
しかも、信玄の妹を妻とし、生まれた子を嫡子と定め、
その子・寅王が生まれました。
生まれたその年、七年に一度の諏訪神社の大祭「御柱祭」の時、天文11年(1542)
武田信玄は、突然、諏訪一族の本拠地である上原城を攻めました。
武田との不可侵同盟を信じ切っていた諏訪一族は、手勢350騎で守ろうとしたが、
多勢に無勢で降伏し城を明け渡した、諏訪一族は滅亡します。
後に、武田家臣・板垣信方が城を修理、武田氏の信濃経営の拠点として欠かせない城となった。
郭、土塁・空堀などもよく残り、本丸は山頂部にある城として広く、特に、諏訪上社方面の眺望は好い。
信玄は死は3年間隠蔽すること。その遺骸は具足を付けて
諏訪湖に沈めることを言い残したという。
諏訪湖に遺骸を沈めるという話は、武田家の逸話や軍法などを
記した甲陽軍鑑にも残されている。
一方の諏訪湖に伝わる伝説の中にも、1576年4月12日の夜中に、
石棺が静かに沈められたという。
その際、侍たちの松明の赤い光に照らされて、
赤い泡を吹き出しながら諏訪湖の湖底に沈んでいったと
伝えられている。
近年、国土地理院の委託で、1987年に諏訪湖の湖底の地形を水中ソナーで調査した
民間会社の技師が、一辺25メートルもの大きさの菱形の人工物と思われる形状を発見した。
菱形は武田家の家紋である武田菱とも一致している為に、これが信玄の水中墓である可能性が
高いという期待もあって、当時はマスコミも含めて大きな騒ぎになった。
湖底の調査は1988年から1990年までの間に5回にも及ぶ調査が行われた。
調査の結果、菱形部分はくぼ地となっており、これが人工物であることは確認できなかったという。
武田信玄の水中墓伝説は未だ多くの謎を含んだままである。![]()
黒沢明監督の映画「影武者」でも、この説を取り上げていました。
又、影武者という点では、信玄の弟・信廉が信玄に酷似していた為、野田城での死後、
甲斐への帰路では信廉が信玄の影武者として振舞って「武田信玄の健在」をアピールしたと
「甲陽軍艦」などに記されています。

