金沢宿
メタボンのブログ


本陣1軒、旅籠17軒、家数116軒、人口622人、宿の長さ8町。


元は、青柳に在ったが宮川の水害に会う事が多く、又、大火にもあったので

現在地に移り「金沢宿」と改称したという。


「村役人の記録」によると、慶安4年(1651)青柳宿を金沢宿と相改め候」とある。

寛文5年(1665)の宗門人別帳には、金沢宿122戸とある。


この宿は道の分岐点にあり、高遠や飯田に通じる宿であったので、伝馬地として

最初から計画的に造られ、町は、上・中・下の各町に分けられ、桝形が作られていた。

道幅は5間、道の中央と両側の家の裏には3尺の用水汐が作られた。


本陣は、文化2年(1805)の[御分間御絵図」によると、本陣は白川嘉右衛門、

建坪116坪、玄関付き、但し門構えなしとある。

この本陣は、問屋も兼ねていて、月の半分問屋を務め、残り半分は道を挟んだ

樋口家が務めたという。


又、この宿は脇本陣が無かったので、必要な時は、本陣がその用を果したという。


宮川に架かる金沢橋を渡ると、右に「馬つぎ石」がある。ここは馬方宿があった処である。

「馬つき石」石の真中をくりぬいて、馬の引く紐を括るようにする。馬止めです。


そして、追分がある。「左 たかとう道」と有り、裏に「宝暦8年」とある。


 小松三郎左衛門磔の場所
メタボンのブログ
先に小堂が有り、石地蔵が祀られている。

此処は、磔場である。

小松三郎左衛門がここで磔にされました。

諏訪高島藩金沢宿本陣問屋4代目当主小松三郎左衛門は、明暦2年(1656)金沢宿所有の土地が千野村のものと裁決されたことに対して諏訪藩に抗議・直訴したが

奉行所は、小松が問屋継立を怠ったという理由で、

小松を磔、妻子追放、闕所(財産没収)になりました。


結局、土地も後に諏訪藩の所有となった。


100年後に子孫が地蔵を立てた。更に、200年後、金沢宿の土地であるという勝訴判決も出ました。

200年以上争ったわけです。土地への執念が凄まじいです。

「一所懸命」とは、このような事なのでしょう。

土地の人は、小松三郎左衛門の事を「みょうり様」と呼んでいる。

台石には、寛政12年(1800)4月建立」とあります。


 酒室神社
メタボンのブログ
酒室神社

諏訪大社上社の年次祭典である

押立御狩(5月2日)と御射山祭の神事には

酒室社の神事によって準備が整えられている。









この先には、茅野村の一里塚がある。

江戸から50里。

「宿村大概帳」には、「木立松。但し、左右塚共 茅野村内」とある。


頼岳寺

諏訪頼永が寛永8年(1631)開山。曹洞宗。

境内奥の霊廟には父・頼忠と母・理昌院の墓を永命寺から移した。

後に頼永もここに埋葬される。

  頼岳寺
メタボンのブログ













メタボンのブログ
頼重院
 

開基は諏訪頼重。

頼重は、上原城で降伏の後に、甲府へ送られ自決させられた。

家臣がその遺髪を持ち帰り、境内に埋葬したという。

娘(諏訪御前)が勝頼を産んだのである。

この当時は、女性は戦の戦利品です。

20代で亡くなり、悲運のヒロインとして有名です。










足長神社
神戸の一里塚から800m、階段を上がると足長神社。

この神社は、創立年代は不詳であるが、桑原郷の社として、手長神社と共に祀られた。

上桑原の産土神である。

ちなみに、この神の足の長さは、何と、10mビックリマーク
諏訪湖を自在に苦も無く歩き回ることが出来ます。次に出る、手長神社と一対になります。