甲府城跡
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 甲府の市街は武田信玄の父・信虎が石和から移って甲府駅の北部、

躑躅ヶ崎に居館を構えたことから始まる。

人は城人は石垣人は堀情けは味方仇は敵なり

躑躅が崎の館は、堀が無いとされてきたが、近年、遺構が発掘されたところ、

堀跡があり、やはり、備えは在ったことが判ったそうです。


武田滅亡後、家康は現在の「舞鶴城公園」の地に甲府城を造営し、繁栄は南部に移った。

舞鶴城とは、城の姿が鶴の舞う姿に似ていることから付けられた。

   「躑躅が崎館跡」


江戸時代にはここを下府中といい、武田時代の駅北部を上府中、あるいは古府中と呼んだ。

宿の正式名称は「甲府柳町宿」という。

名の由来は、宿場の中程にある柳町に問屋場などがの機能が集約されていたことに由来する。


本陣1、脇本陣1、旅籠21軒、家数209軒。人口905人、宿の長さ4町47間。


宿の外れの甲運橋には、「川田の渡し」があった。

元は笛吹川の本流が流れ、夏季は舟渡しであった。

「宿村大概帳」によると、川幅36間、水が増えると120間に広がるとある。

船賃は一人6文、馬一匹12文。


その傍には、「川田の道標」がある。

「右 富士山 大山 江戸」とあった。


甲運橋から800mの地点に、「武田氏館跡」の標柱がある。

躑躅が崎に移るまで、武田信虎の屋敷があった場所である。


その先には、「宿村大概帳」によると、「板垣の一里塚が有って、榎が植えられていたとあるが

今は、無く、不明である。

    「酒折宮」
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右手に「酒折宮」がある。

連歌発祥の地として知られている。

祭神は日本武尊。

日本武尊が東征の帰途、此処に立ち寄った時、

尊は、「新治 筑波を過ぎて幾夜か寝る」と詠んだが、

誰も歌で応えられなかったときに、

火焚の嵡が「かがなべて 夜には9夜 日には10日を

と歌で応えた。

尊は、この翁を誉め、国造に任命し、

「火打袋」を与えたとある。


この問答が連歌の起源とされ、連歌は「筑波の道」と称されるようになったという。


その先が善光寺である。

甲斐「善光寺」


甲斐の善光寺

宝永4(1707)年甲良宗賀の設計により再建された、江戸時代中期の仏教建築を代表する傑作です。

信玄が川中島合戦の折り、長野・善光寺が戦火に焼かれるのを恐れて諸仏・寺宝をここに移して

善光寺と称した。永禄8年(1565)。

その後本尊は長野に戻されたが、今の本尊も建久6年(1195)の銘を持つ阿弥陀三尊で

国の重文である。

規模においてとても長野には及ばないが、風格のある朱塗りの山門、本堂とも国の重文。

どちらも明和・寛政年間(18世紀末)に再建。工事期間が30年も掛った為に、

工事が遅々として進まないことを「善光寺普請」と呼ばれた。


  「長野善光寺」(国宝)


境内の手水鉢の近くに「芭蕉嵡月陰塚」がある。

「月影や 四門四宗も 唯一つ