普門院 鷹山は恩師・細井平洲をここに迎え、藩の学校・興譲館を設立。
この費用も、醵金によるものとして、全ての人に勉学の機会を与えました。

しかし、ここで江戸時代史上有名な天明の大飢饉(1781~89年)が襲います。
東北諸藩の政策が被害を広げた。
自領の米が流出しないように米の流通をストップし、さらに江戸や大坂の商人からの
借金返済に苦しんでいた領主は年貢米も江戸・大坂に送ってしまったため、
藩元では米穀が不足し餓死者を増加させた。
餓死者の数は、仙台藩で10万人、津軽藩で8万人余、南部藩で6万5000人、
八戸藩で3万人余に及んだ。
人々は、牛・馬・犬や草木の葉や根など、食べられるものは食べつくし、
それでも食べるものがなく餓死していったのだが、史料が伝える状況はもっと悲惨だ。
杉田玄白の『後見草(のちみぐさ)』によると、子どもの首を切り、頭皮をはがして火であぶり、
頭蓋骨の割れ目にヘラをさしこみ脳味噌をかき出して食べたという。他の史料でも、
餓死した母親を娘が食べたとか、ある家で姑が隠した食料を自分だけが食べ、
その娘は仕方なく生きているわが子を殺して食べた例が記されており、またある家では、
蒸籠(せいろう)の中に死骸や骨がたくさん見つかり、塩漬けにされたり焼かれた人肉が、
首だけで38あったという。
米沢の天明の飢饉
天明2(1782)年、長雨が春から始まって、冷夏となった。
翌3年も同じような天候が続いた。米作は平年の2割程度に落ち込んだ。
鷹山以下、上杉家の全員も、領民と同様、三度の食事は粥とし、窮民の援助に全力を傾けた。
餓死者を出さないという奇跡を起こし、又、江戸に逃げて来た人でも米沢から来た人は居なかったという。
全国300藩で、領民の救援をなしうる備蓄のあったのは、
わずかに、紀州、水戸、熊本、米沢の4藩だけだったという。
近隣の盛岡藩では人口の2割にあたる7万人、仙台藩は30万人の餓死者、病死者が出たとされて
いるが、米沢藩では、このような扶助、互助の甲斐あって、餓死は一人も出なかった。
それだけでなく、鷹山は苦しい中でも、他藩からの難民に藩民同様の保護を命じている。

上杉鷹山が家督を譲るに当り、藩主の心得として伝授したものが有名な『伝国の辞』です。
3カ条からなり,国家は先祖 より子孫 へ伝えるもので、ケネディー大統領に感銘を与えたという。
人民は国家に属するもの,国家は人民のためにあるもので,君主 が自由 にできるものではないという,
君主専制 を戒めたものである。
一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候
一、国家人民のために立たる君にし君のために立たる国家人民にはこれなく候
家督を譲るに当たり、息子の教育係に功のあった有能な家臣をつけます。
しかし、是が仇となります。
家臣は、どうしても鷹山と比較してしまいます。
従って、厳格になり、それを嫌がった息子は遠ざけてしまいます。
責任を果たせないと感じた教育係は切腹してしまいます。このような悲劇も有りました。
絶えず、陰でのサポートを行い、家督を継いだ若殿の運営が行き詰まり、再び、経営が
悪化した時も、意見書を作り現状を分析し、批判を行い改善案を提出し
悪化した事態も収拾していきました。
死後は、謙信と並んで上杉家の祖神として崇敬を受けます。