八王子宿を整備した大久保長安に
よって開かれている。
宿場町は経済・軍事な拠点でもあり、宿の出入口を
桝形にして敵が真っ直ぐ進めないように作る。
本陣跡には本陣としては東京都内で
唯一遺された当時の建物が建っている。
本陣1 脇本陣1 旅籠20
日野が渡船営業権を持っていたので「日野の渡し」と
云い、文政7年(1824)から年間渡船通行
になり大正時代まで続いた。
渡船賃は、武家と僧侶は無料。文政年間は10文とある。
十返舎一九の「身延道中記」では、「船賃水少なき時は三文、水多き時は定めなし。
これより八王子へ1里27町なり」
日野の渡しで有名なのは
「多摩川の鮎」である。
夏から秋まで漁が行われ、幕府御膳所へ上納された。
江戸で大人気の鮎寿司は、川のほとりの「玉川亭」で作られ、料理され喜ばれた。
そして、江戸までの40㌔を岡持ちに入れられて、夜通し走って届けられたという。
江戸城大奥や江戸の通人に喜ばれた。
万願寺一里塚
江戸初期の一里塚と云われている。
現在は、一つのみ残っている。
石田寺(せきでんじ)
新撰組の土方歳三の墓が有る。
「歳進院殿誠山義豊大居士」 行年35歳、近くには生家・記念館もある。
石田散薬という打ち身に効く薬を売り歩いていたそうです。
江戸時代から、眺望に優れ月見。花見で大いに賑わったという。
「江戸名所図会」には、江戸時代にはお寺であり、
明治になってから個人の所有になり
庭園と家屋を復興し「百薬園」と名付けた。
戦後、鉄道会社が買収し、一般に公開している。
中には、芭蕉句碑がある。
「春もやや けしき調ふ 月と梅」芭蕉
ややは、ようやくという意味。
百草八幡宮
同じく江戸名所図会に紹介されている。
康平5年(1062)源義家・頼義親子、奥州征伐の時、創建。
山城国男山八幡宮の土をもって治め、社殿を造営するとある。
寛文6年(1666)本殿など諸社殿が再建され、朱塗りの立派なものになった。
関東3不動の一つ。江戸名所図会では、
新義真言宗、大宝年間以前の創建。
今は、智山派の別格本山。
千葉の成田、神奈川の大山と共にお不動さんで有名。
中には、芭蕉や有山薫糸、山口誓子などの句碑がある。
「如来出て 掌に受け給う 枝垂梅」
本陣跡
日野本陣は嘉永2年正月の大火で母屋は焼失。現存のは佐藤彦五郎が文久3年造。
本陣には天然理心流師範代として道場を作り提供し近藤勇や沖田総司が稽古に通っていたという。
彼らの兄貴分であり、新撰組に対して多くの金銭的・物質的援助を行い、明治になってから、
政府から新撰組への関与を疑われたが後に無罪になった。
八坂神社
八坂神社は素戔嗚命系の神社で、昔この付近の土淵と言うところで多摩川の洪水の後、
淵に妖しい光が数夜に渡って見えたので、故老が拾い上げると、金色燦然と輝く牛頭天王の神像であったという。その像を祀ったのがこの神社の起源で寛政十二年のもの。本殿の彫刻が見事である。
前に紹介した、新撰組の後援者である佐藤彦五郎の
屋敷である。
佐藤彦五郎は、土方歳三の姉が妻であり、
近藤勇とは義兄弟である。
今、蕎麦屋を営業してるそうですが、理由があります。
江戸時代、通人として知られた蜀山人が、この家で蕎麦を
御馳走になり、あまりの美味さにビックリして、日本一の蕎麦であると礼状を残しているのである。
明治天皇が兎狩の途中、此処佐藤家で休憩しました。
その時、佐藤家の門の高さが低かったので、愛馬が通れません。
やむなく、地面を掘り下げたそうです。
「明治天皇小休止址」の碑がある。
天皇は、多摩の地を好まれたのか、何度も足を運んでいる。
「雪降れば 駒に鞍置き 野に山に遊びし昔 思い出でつつ」御製






