鉢石宿
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鉢石(はついし)宿は東照宮の造営に伴い、正保元年(1644)に日光道中(日光街道)の

最終宿として設置され、日光参詣の客で賑わった宿場であった。

中世期までは「坂本」と呼ばれていたが、日光山を開山した勝道(しょうどう)上人ゆかりの石が

「鉢を伏せたような形」であったので「鉢石」と呼ばれ、後の東照宮造営の頃から「鉢石宿」と

呼ばれるようになった。


町並みの長さは5町余、正保元年(1644年)伝馬宿に定められた。

天保14年(1843)人口985人、家数223軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠19軒。

本陣は、入江家と高野家。今は無い。

高野家の庭には芭蕉の句碑がある。

あらたふと 木の下闇も 日の光」

この句は、「奥の細道」に掲載されてる句。

あらたふと 青葉若葉の 日の光」の、推敲前の句であると云われている。


  龍蔵寺
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龍蔵寺跡

杉並木の右側に石の梵鐘」

かつて村人が石の梵鐘を奉納しようとしたところ、

重さで竜頭が破壊。以来ここに放置されている

龍蔵寺は天台宗であり、今は廃寺になってしまったという。

この村には、弘法の硯水の話もあるので、

弘法が立ち寄ったのかもしれない。

並木太郎

樹齢600年。杉は樹高38m、少し先には根本が銀杏のように広がった「銀杏杉」が、

共にすっくと立っている。


明治天皇七里御小休所跡碑」

明治9年、東北巡幸の帰途、小休みされた場所である。  


  麻疹地蔵
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筋違
(すじかい)

日光街道と筋違いに流れる川なので、この名が付いた。

麻疹地蔵

このお地蔵さんは麻疹を直してくれるということで

昭和初期まで橋下を潜る幼児連れの参詣者で

に賑わったそうです。

橋の下にあるから橋下=はしか=麻疹。 出来過ぎですか。




橋の袂に奥州古道の跡がある。

1689年(元禄2年)芭蕉と門人・曾良は日光参詣の後、この道を通ったと曾良の日記にある。

又、橋の袂に参詣者に対しての番所があったという。



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異人石
と云われる石が目に入る。

明治の頃、一人の外人が石屋にたのんで座りやすい石に

加工してもらい、

毎日ここに座って杉並木を観賞していたのだとか。

明治になって、ドイツ人医師ベルツ博士は、日記の一節に

荘厳なる静寂境をかもす、世界で一番美しい並」と、

絶賛している。








  鉢石
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龍蔵寺奥の「稲荷神社」

西行法師歌碑」がある。
ながむながむ 散なむことを きみも思え くろ髪山に 花さきにけり

 


歌碑の隣に「西行戻し石」といわれる面白い石が。
 西行が石の上の子供に「小僧どこえ行く」と聞くと、

小僧は「冬萌(ほ)きて 夏枯れ草を刈りにゆく」(麦刈り)と答えたので

西行は「手強い相手だ。歌比べは難しい」と引き返してしまった」のだとか。


 ご神橋
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「鉢石宿」の由来となった「史跡鉢石」

しめ縄で守られた「鉢石(はついし)がある。


神橋

日光山内の入口の木橋。

長さ26,6m。 幅6m、水面からの高さ10,6m。

橋桁以外は朱の漆が塗られている。


太い橋桁の端を両岸の地中に埋められているのが特徴で、この橋桁は「乳の木」と呼ばれ、

神聖視され、特に上流のは、(神秘の乳の木)と云われ、洞の中に「橋姫」の像が安置されている。



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かって、勝道上人が大谷川の急流を渡ることが出来なかった時、仏教の水の神である「深沙大王」が

現われ、赤青蛇で橋を架け、その上に山菅を生やし

渡りやすくしてくれた。

この伝説にちなんで、「山菅の蛇橋」とか「山菅橋)と呼ばれた。


此の橋は、一般の人は通行禁止。

社参の将軍と修験者のみに限られる。

又、国の重要文化財に指定され、山口の錦帯橋・山梨の猿橋と並んで天下の三奇橋の一つである。


此処までが日光道中である。