千間堀を渡ると、粕壁である。
江戸時代には、古利根川で江戸と結ぶ舟の交易路で栄え、米・麦の集散地であった。
人口は男・1791人、女・1910人、家数773軒、本陣・脇本陣各1軒。
旅籠45軒、毎月、4と9の日は、(六斎市)が開かれ賑やかだった。
粕壁は桐箪笥の産地として知られているが、これは日光東照宮造営のために
全国から集まった工芸職人が粕壁に移り住み、地元産の桐を使って桐工芸品を
創り出したのが始まりと言われている。
ちなみに、江戸時代は娘誕生となると、庭に桐の木を植えるそうです。
そして、娘が成長し、目出度く嫁入する時には、その桐の木で箪笥を作り
花嫁支度としたそうです。
娘さんの嫁入は大体20歳前ですね。15,6才くらいですか。(武士の世界ですが)
それを過ぎると、年増としてみられます。
30才過ぎると、枯葉と異ならずと口の悪い人は言ってます(私ではありません
)
大名ですと、5,6才くらいで婚約も珍しくないです。
大名の場合は、血筋が物言う事が大きいようです。(閨閥)
男ですと、武士の世界では、長子制度ですから、次男はまだ予備として見られますが、
三男以下は、もう、早く養子を探さないとダメです。
一生懸命に勉強して頭角を現さないと下の身分の世界は大変だったようです。
20歳くらいまでに、決めないと遅いようですね。
行けないと、厄介叔父として、屋敷の片隅で暮らすようになり、勿論結婚も出来ず、
もし、子供が出来たら間引きです。
右に、称名寺、そして、林西寺がある。
林西寺は代々将軍の朱印状を持ち、広大な敷地を持っていたという
備後一里塚跡碑があり、その先の川に架かる橋が「藤塚橋」
大きな楠木は(イヌクス)は樹齢600年。
県の記念物である。
この下には、室町から江戸時代は舟運を
利用したものが盛んで、この上流に船着き場が有り、
此の巨大なイヌクスは船頭の目印になったという。
東陽寺
本堂の階段下に、河合曽良旅日記の一部
「廿七日夜カスカベニ泊ル 江戸ヨリ九里余」
と刻まれた石碑(が見られる。
芭蕉と曽良は東陽寺に泊まった、といわれているが、
小渕の観音院に泊まったともいわれている
最勝院
「春日部」の由来となった「春日部重行の墳墓」
が墓地の奥に有る。
足利尊氏の軍勢に敗れた春日部重行は京都で自刃。
遺骨が持ち帰られ最勝院に葬られたのだとか。
「追分け道標」(左)に「左日光道」と刻まれている。
観音院」は芭蕉と曽良が最初に泊まった場所だとも
云われている。
山門を入ると「芭蕉句碑」
「毛(も)のいえば 唇さむし 秋の風 はせを」
粕壁と相撲
此処粕壁もまた、江戸川と中川に挟まれた低湿地で
洪水が多く不毛の地であった。
江戸前期の頃、収穫が少ないのに租税ばかり
高い地が有りました。
お互いにその所有を争って、相手に押し付けようと
していました。
そこで、相撲でその決着をしようとしました。
そして、大畑地域が勝って、厄介な土地を相手に
押し付けることが出来たことから、
「ヤッタリ ヤッタリ」と囃し踊りました。
それが「ヤッタリ踊り」の始まりだそうです。
この踊りは県の指定文化財に指定されてます。

