千住大橋
千住の名の由来は、嘉歴2年(1327)荒川から得た千手観音からとも、或いは、
足利義政の妻・千寿の生地からともいう。
「宿村大槪帖」によると、人口は男5005人、女4551人。
本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒、遊女屋36軒、江戸4宿の一つであり、
日光道では、此処と宇都宮に貫目改所が置かれていた。
千住大橋が文禄3年(1594)伊奈忠次を普請奉行として橋が架けられて以来、
人が住みつき、寛永2年(1625)日光道の初宿と定められた。
ヤッチャバ通り
享保年間の頃より、毎朝市が開かれ野菜・魚・穀物等が商われ、
神田や京橋の市場に運ばれた。
「ヤッチャバ」のヤッチャは、元気にいいセリの声、「ヤッチャ、ヤッチャ」からきている。
紙問屋・横山家の土蔵として使われていたものが、今は、資料館として江戸・千住宿の
歴史を伝えていて、1830年天保元年の棟札がある。
この場所では、現在でも千住葱のセリが行なわれています。今の千住葱は、埼玉県産です
現在の足立市場の脇には、奥の細道の第1歩を記念した芭蕉像が建っています。
赤門と云えば、12代オットセイ将軍と云われた家斉の娘・溶姫が加賀百万石に嫁入した時に
作られ、今は東大の赤門として有名ですが、此処、千住にもあります。
千住にも門を赤く塗られたお寺、勝専寺(通称赤門寺)が在ります。
ここは将軍が鷹狩りにお越しの際にご休息された場所です。
将軍のご休息所だったので門が赤く塗られたのですね。
勝専寺には、千寿の名称となったとされる隅田川で見付かった千寿観音があります。
5代将軍綱吉は、生類憐れみの令を出したので鷹狩りはご法度でしたが、
8代吉宗は無類の鷹狩り好きだったので、度々お成りになったかもしれません。
島根村には、その吉宗が鷹狩りの帰りにお寺で行なわれていた寺子屋を覗いた記録があります。
この近くに明治の文豪・森鷗外が住んでいた跡があります。
森鴎外がドイツ留学する前に住んでいた住居跡です。(1884年から)
宿場の通りから20m程脇に入った処にあります。現在は、都税事務所が建っています。
素戔嗚神社(すさのお)
平安時代の795年創建の古刹で、社伝では「延暦年間、比叡山の僧がこの地に至り、
小笹の茂る小塚の上に夜ごと瑞光の発する霊石を見つけた。
或る晩、老爺が二人現われ「吾は素戔嗚大神、事代主神」と告げた。
この二人を祀ったのが神社の始まりだという。
又。小塚原の名前は、是に由来するという。
国土安穏寺
2代秀忠、3代家光が鷹狩や日光参詣の帰りに立寄った為に、御成門が建てられ広い参道が
在ったという。
又、家光の命で長久山妙覚寺から現山号に変えたという。是は、宇都宮釣天井事件を
予言した功によるものだという?