大猷院廟(3代家光)
メタボンのブログ
庶民による参詣は、明暦元年幕府より許可されている。

権現様の御神徳を慕ってのことであると、是を認めた。

しかし、大猷院廟(家光)に限っては、町人・百姓はもとより、御家人にもこれを許さなかった。








江戸時代、旅人に多く読まれたのは、「中膝栗毛」と共に、貝原益軒の「日光名勝記」

(正徳3年・1713)である。

多くの人がこれを読んで日光へと旅立った。


   「陽明門」
メタボンのブログ
益軒はこの旅行記の中で、東照宮をこう述べている。

凡そ本社以下の美麗なる事、日本第一なり」、と。

そして、参詣の様子を記している。

その先に、御社の総廻りの石垣あり。

石垣の下まで鳥居より15間あり。

石の階1丈ほどあるをのぼり、仁王門に入る。

その内に、常に門番有て、みだりに人を入れず。

旅客参詣の事、亭主より輪番の社僧に

胡乱ならざる客の由を伝入て、社僧の証拠の手形を取りて

御門番に見せしめて出入す」


中に入るにも、検査されて手形が必要なのです。


明治初めの日光には、数え歌があったという。

7つとや 並ぶ堂者も打揃ひ打揃ひ、日暮御門では日を暮す日を暮す

堂者とは参詣客、日暮御門とは陽明門である。


メタボンのブログ
堂者たちは、入り口の筋違橋の番所で、

檀方帖で生国や身分を確認され、その後宿坊に向う。

宿坊の無いものは、近くの旅人宿を利用した。

こうした人を狙っての客引きはトラブルを生み

宿坊と旅人宿との間で客の取り合いで対立が生じた。

この為に幕府は通達を出して客引きを制限させようと

した程である






さて、参詣の朝。

先ず、潔斎します。水浴びなどで身を清める。(二日酔いなど、もってのほかです!)

それから参詣切手を受け取り、案内者に従い見物である。

この案内人を付けない参詣者は、不審者とみなされて取り調べを受けます。

ただ、この参詣も陽明門までであり、それ以上内へは入れない。


この参詣客は、元禄時代には1日に5700人を超えたという。

ただ、この多くは各地の社寺・霊場への巡礼参拝の一つとして参拝している。

日光、筑波、成田、鹿島などである。


尚、日光の近くには温泉が多くあり、湯治に来る人も多かった。

しかし、中禅寺湖温泉は、女人禁制であった為に女性は行くことはできず、

解禁されたのは明治以降になってからである。

女性の場合、口に草木を咥えさせて、生類の一つなりとして、人ではなく動物として

出入を許可されたという。