伊勢参り

      伊勢参道

メタボンのブログ 古来伊勢神宮は一般庶民から特別な尊敬を

受けていました。

伊勢の地は、古来、外宮・内宮の両大神宮が鎮座する、

わが国最大級の由緒ある聖地であり、

古くから参宮の為の表街道(参宮街道)や裏街道が通じ、

道中の各所に旅人たちの為の宿駅や陣屋が出来、

雲出川や櫛田川、宮川などの大きな河川には、

船の渡し場や籠、馬の返し場(返馬・へんば)があった。

そして、街道筋には名物食を売る店や、

謂れのある名所なども次第に整って行った。


外宮から内宮に向かう途中の尾部坂は、いつの頃からか、参宮客に「間の山・あいのやま」とも

呼ばれるようになり、そこには見世物小屋などもあったようだ。江戸時代の川柳に、

伊勢詣り 大神宮へも ちょっと寄り」

  

 お蔭参り
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抜け参りとは
、親兄弟や雇われている主人にも

言わずに参詣する事。

お蔭参りとは、皇大神宮のお蔭をもって、

無事に参詣を終わる事。


早くも、慶安3年(1650年)には、既に始まっている。

   


それが熱狂的になったのは、庶民に余裕が出てきた宝永2年(1705年)の頃と云われる。

至る所で「講」が作られて、一生に一度は「お伊勢へ」と、向かい始めた。

           「文政伊勢参り」
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金の無いものは、柄杓を腰に挿し、途中、無料振舞いを受けながら行くのである。


江戸を出て 格好のつく 伊勢参り


伊勢への街道は人で埋まり、多い時には7,8万人の人で埋まり、特に畿内は凄く、

京の三条や五条の橋では、豪商が米だけではなく草鞋や菅笠なども用意し、無料で配った。


何をやっても許されて、例えば、店の金を盗んでも伊勢参りを済ませれば許されるといった

風潮まで現れました。

勝海舟の父・小吉も無一文で出かけて、無事に伊勢参りを済ませたという事が記されているので、

乞食道中でも大丈夫だったのでしょう。


しっぽフリフリ犬の話もあるそうです。無事に参詣?を済ませた犬は、参宮犬と呼ばれて大変縁起の

良いものとして人気があったそうです。


又、大名の江州・膳所の藩主は、淀、水口などから舟を出し、宿泊所を設けて、無料で行ったという。


特に明和8年(1771年)は、飢饉で、悪疫も流行した為に社会不安が広まり、

丹波、山城の住民が押し出したのをきっかけにして、伊勢への人並みは、畿内から

中国、九州へと広がり、その数25万人と云われた。


その後も、飢饉・悪疫などの不安要因が重なると、度々このような現象を起こし、

天保元年(1830年)そして、慶応3年(1867年)には、大爆発し、

有名な「ええじゃないか、ええじゃないか」と街頭に出て踊り狂った。

その殆ど捨て鉢な叫びは、今迄のようなお伊勢参りの変質を感じさせるものであった。


江戸周辺から伊勢参りへ行く人々は、行きは東海道を通り、帰りは善光寺詣でを兼ねて

中山道を通るのが一般的でした


伊勢参りなどにかかった費用の額は、旅人が書き綴った道中日記などから知ることができます。

江戸周辺から伊勢神宮まではおおよそ15泊程度の行程で、19世紀半ばの段階では旅籠代は

1泊200文程度が相場だったようです。

また、昼食代は70~80文といったところでしょうか。

この他、川越・渡船の運賃、茶屋での代金、駕籠や馬の乗り賃が必要となります。
1日の必要最低経費を300文として、片道15日の行程で最低4貫500文。

大工の日当が500文くらいであったことを考えるとかなりな出費でしょう。
幕末の頃になると、旅籠代は。上宿が500文、食事代が100~150文になりました。

殆ど倍になってしまうことになります。