「箱根関所」

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海道の場合、箱根と新居に厳重な関所があった。「入り鉄砲に出女」は、厳しく取り締まった。

当初の箱根路は、雪や雨が降ると泥沼化し、そこを通る旅人達は足が脛まで漬かって歩くの

に難渋した為に、幕府は、1680年に道へ石を敷き石畳に改修しました。


「♪登る筥根のお関所で ちょいと捲く 若衆ものとは受取れぬ

       ♪こちゃ小田原新造ぢゃないかとちょいと三島 ♪こちゃえ♪こちゃえ

、女性は人相、体型、髪形、身体的特徴まで細かく書かれた「女手形」を町奉行経由で、

幕府の留守居役が証明し発行しました。
関所には、女性の旅人を検査する「人見女」が居ました。歌の意味が判りますか?

  箱根七湯
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箱根の関所破りは、5件6人、未遂事件は18件。

思ったより少ないが、実際は是よりあったのではないか?









新居の関所は厳しいので知られていた。


讃岐丸亀藩士の娘・井上通女一行が関所に着き手形を出しました所、通行を拒否されました。

理由は、「小女」と書くべきところを「」と書いたためでした。

単なる書式のミスですが、それでは通りません。

仕方なく、藩の大阪屋敷に手形の再発行を依頼し、それが来るまで7日間も

逗留するようになったという。


又、武女という女性は、享保5年(1720年)3月2日。

新居の関所に到着し、関所を見たら、武具がいかめしく飾られているのを見て

胸がつぶれ、手足が震えたという。

又、顔を隠す笠や扇も取り上げられたので、化粧をしてない顔にボサボサの髪が掛かり

どんなに見苦しい事だろうと、女性らしく冷や汗を流している。


幕末、志士として有名な清川八郎は、安政2年(1855年)母と一緒に赤坂の宿に泊った。

翌日、母は抜け参りで手形を持ってなかったので、清川は、厳しいという新居関を避け

御油から脇街道に入った。

しかし、そこにも気賀の関所が有り、やむなく、清川は舟を雇って渡った。

その時は、船頭にふんだくられて銭1貫文も払うようになったという。

これは、関所破りです。


上の絵の駕籠ですが、山駕籠といわれ箱根越えに使われた駕籠で、雲助がぶつけても

足を痛めないで歩けるように、底が円形になっていました。


富士の白雪ノーエ 富士の白雪ノーエ 富士のサイサイ」と唄われる三島農兵節は、

幕末の伊豆・韮山代官であり、江戸のお台場建設に奮闘し、洋式軍事の大家として知られた

江川太郎左衛門が農兵の調練に用いたものでした。
江川太郎左衛門は、幕末活躍した幕府の役人です。

歌を唄いながら一気に箱根を下ってきましたが、次は
「♪酒も沼津に原つづみ 吉原の 富士の山川白酒を

    ♪こちゃ姐さん出しかけ蒲原へ ♪こちゃえ♪こちゃえ」


只、時代が下がると男性は、旅籠でも手形を入手出来たし、女性も関所の番人や人見女に

賄賂を払ったり、女人道や隠れ道を通って旅をした人もいました。箱根の関所でも、

御関所案内として100文を払って通行が許された話もあります。