幕府は治政が始まるとすぐ軍隊の移動と経済動脈として、東海道などの5街道を始めとして
整備を急いだ。
大街道では道幅6間(11m)、小街道では3間と定め、担当の諸大名に命じて
畳の厚さに砂利・小石を詰めさせた。
その為、旅は楽になり、中期以降は著しく交通量を増している。
しかし、その庶民の旅は依然大変であり、大河に橋は無く、山の難所には関所、
人通りの多い街道には掏摸がいて、雲助には酒手をねだられたりして苦労は絶えなかった。
家康は慶長6年、東海道に宿場を設定して公用の旅行者や物資輸送の義務を役割を決めた。
それまでも、宿場毎に輸送に従事する人足はいたが、
それを一定の場所に限定して
公的機関にしたのである。
翌年には、中山道も準じられている。
宿場は古くから、律令制の伝馬や駅馬の制度があり、戦国大名も自国に設定していた。
「伝馬朱印状」と呼ばれる。
朱印を押した文書持参の者に限り伝馬を
提供するというものであった。
その数は、当初36人で、人足は無かったが、
後に人足も付き、人数も100人になった。
(中山道は、その半分の50人)
その他の3街道はさらにその半分です。
慶長7年家康の出した伝馬朱印状によれば、この朱印が無く、人馬を出せという者が居れば
その郷中のもので打ち殺してよし、もし出来なければ訴え出るようにというものである。
ただし、その朱印状の持ち主は、公家衆、諸門跡、将軍の命で行っている者、
茶を運ぶ茶坊主などである。
「三宝荒神」 真ん中に人、両脇に荷物を付ける。
伝馬の負担者は、街道の屋敷持ちであり
その代りに税金を免除されました。
これはのちに宿全体の負担となり、
宿全体で何千坪の税金も免除された、
荷物の重さは、一駄40貫、人足の荷物の重さは5貫目、長持の重さが30貫ならば
6人掛かり、軽ければ人数を減らす。
その賃銭は道中奉行が決めた。道中奉行は大目付と勘定奉行から各一名選ばれた。

