宿場
宿場は、3つの仕事から成り立っています。
1、人馬の継ぎ立(旅人と荷物の輸送)
2、旅人の宿泊・食事施設の供給。
3、通信業務
1,3の人馬の継ぎ立と通信の為に、問屋場が作られ、宿泊と食事の為に旅籠と茶屋がある。
問屋場
問屋が2つある場合は、月の半分ずつ交代で務める。
宿場での継立 「藤沢宿」
幕府の公用の旅行者である大名・旗本・御家人は、
江戸を出発する際に
あらかじめ宿泊の日程表と必要な人馬の手配を
江戸の伝馬所に提出し、それは各宿場に送られます。
ですから参勤交代などでは、何か月も前から
役人が来て手配します。
こうして、問屋場では何日の何時頃、
幾らくらいの人と馬が必要か分かります。
本陣の様子 「関宿」
東海道で用意できるのは一日人足100人、馬は100頭。(中山道ではその半分、その他の街道はさらにその半分)
足りない場合は、助郷制度を使って、周囲の村々から集めます。(しかし、この助郷制度も問題がありました)
農繁期と重なるからです。
後には、金で以って清算できるようになりました。
大きな行列の場合は、まるで戦争状態です。役割を全部決めておきます。
もし、途中に川があれば、川止めがあるといけないので、見張を出して確認しておきます。
朝立ちの行列の場合、朝3,4時ごろ出発ですから、その前から、人馬を用意しなければなりません。
暗夜に何百という人馬が集まる訳ですから、不眠不休も当然有る訳です。
問屋場の建物の作りは不思議な造りになっています。
それは、問屋場は道に向かっていて、店で事務を執るが、その床が高くて人の肩くらい有ります。
その理由は、約束の人馬が揃わないと、侍が怒って往々暴れ込むのを防ぐためであり、
それでも、斬り込んで来たら、床下へ逃げるようになっているそうです。
通信業務
幕府の公用物を運ぶ物を継飛脚といい、
最も重要なものであった。
公用旅行者は先触れで、公用ですと必要な人馬や
宿泊の予定を各駅に通知しているが、
武士や神官僧侶は、駄賃帳を持っているので、
宿場は駄賃帳に駄賃を記入し問屋の印を押した。
問屋場は、毎日、日〆帳という帳面に記入する。
しかし、問屋は責任が重く、繁多に拘らず、給与は少なかった為に、次第に疲弊し、
問屋を続けるのが困難になり、江戸時代を通じて一つの家が世襲したのは少ない。
「はたご」もともとは、馬の飼料を入れる「かご」で
あったという。
転じて、食物を入れる器、更に食事を提供する
宿所になった。
何時から食事が出るようになったかは定かではない。
1630年の日葡辞典によると、ハタゴなどの字が有るので、
この頃には普及していたのでしょう。
又、同じくらいの頃のオランダの医師によると、まだ、この頃は、旅籠では、布団を出していなかったという。
幕末近くでは、上宿で200文くらいでした。
旅館でもいろいろあるので、比較は難しいが、
食事代が50~100文くらい、菓子代が8文、16文、
蕎麦が24文ですから安いでしょう。
旅館の経営は、宿泊の数です。ここで登場するのが、「留女」です。
奪い合いになるために宿ごとに順番を決めたりしてしてたようです。
又、路上で在った旅人を連れてくる「宿引」も登場しました。
旅籠で最も江戸時代の面影を残しているのは、東海道の赤坂宿の大橋屋です。
江戸中期の建築で、大正10年の火災で規模は小さくなりましたが、今は、3部屋定員20人。
江戸時代は、大旅籠で20部屋70~80人定員で泊めていたそうです。
男女関係なく相部屋が普通です。


