「英泉の木曽街道 馬籠」

この絵は、男滝、女滝、恵那山を背景に美濃の平野をめざす牛方や草鞋の紐の

結びを直す旅人の長閑な馬籠峠の往来を描いています。
手前に駕籠を担いでいます。山駕籠なので、ぶつかってもいいように底が丸いです。

向うの道には、牛に乗ってる牛方です。牛方は一人で何頭もの牛を扱っていました。
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「木曽路はすべて山の中である・・・・」という有名な1節から始まる長編歴史小説は、

島崎藤村の夜明け前である。

江戸時代に旅した人にとって木曽谷を越えるため木曽路が一番の難所だったのでしょう。


馬籠の標高は、655m、木曽路の南端である。古くは、「孫妻」「孫目」ともいった。

宿駅としての機能は、豊臣時代にも有していた。

幕府が中山道に駅制を設けた時、近世の宿場となった。

しかし、江戸時代を通して閑散とした宿であった。

南には、恵那山、西には美濃平野が広がっている。


明治28年と大正4年の大火で、ほとんどの建物が焼失してしまったので、古いものが
残っていないのである。

要するに、現在のものは江戸時代のものではないという事です。


妻籠と馬籠間は約8kmです。道路を横切り、石畳の山道を登ります。

途中、吉川英治の「宮本武蔵」にでてくる男滝・女滝があります。

武蔵とお通の舞台になりました。


次に出るのが、石栃白木改番所跡です。尾州藩が檜の持出しを監視していた番所です。

尾州藩は領地である木曽の五木(檜、さわら、あすなろ、高野槙、ねずこ)を御停止木と称し

享保年代から原則伐採を禁じ、原木や板あるいは加工した木器まで木曽から

勝手に持ち出されるのを厳しく監視していました。


更にかなりきつい登りが続き、標高801mの馬籠峠の茶屋を過ぎたところにあるのが、

[十返舎一九の歌碑]です。

弥次さんが峠の茶屋で名物の栗の強飯に舌鼓をうち、

渋皮の むけし女は 見えねども 栗のこわめし ここの名物」と一句吟じたと 

「続・膝栗毛」での歌が碑にあります。

栗は東洋医学では腸を温め、精力を養い、足腰を強靭にし血液循環を良くするということですから、

旅人には喜ばれました。

  

 「宿の東の入口」
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宿場の入口を陣場といった。

昔、小牧長久手の戦いで徳川方の菅沼、保科、諏訪の

3武将が馬籠城を攻めるために陣を敷いた場所です。



江戸時代には、敵の侵入を防ぐために、

宿場の入口には「桝形」と呼ばれる空間が設けられた。

城の城門の作りと同じです。(桝形門)

特に、此の地は、急斜面に作られたために、

まるで城郭のように見えた。


宿場右手小高い丘に、永勝寺。

藤村の「夜明け前」には、万福寺で登場、現在の堂は寛政年間の再建で、

阿弥陀如来像、円空の聖観音がある。藤原時代末期と思われる。


   「藤村記念館」
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島崎藤村は、現在の藤村記念館の場所にあった馬籠宿本陣で生まれた。

小説 「 夜明け前 」 は、明治政府と争そった父の生涯を

青山半蔵という名前で描いた私小説であるが、家産が傾き、父が狂死するという不幸に遭ったことが、

彼の人生観に色濃く反映していったのでしょう。



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記念館の隣にある大黒屋は、藤村が幼い胸にほのかな初恋の人「おゆうさん」の家である。

大黒屋十一代目の大脇兵右衛門が44年間書いた日記が、夜明け前の基になったといわれ、

大黒屋は 「 伏見屋 」 という名で登場する。 






資料館になっている清水屋は、宿役人を勤め、島崎家と親交が深い家で、
八代目の一平氏は藤村の小説「 家 」で、「 森さん」 の名前で登場する。 
脇本陣だったところは、脇本陣資料館になっている 

   「立場茶屋」
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荒町集落。ここには、馬籠城跡と諏訪神社がある。

そこからしばらく歩くと新茶屋。

江戸時代立場茶屋があった処である。

少し南にあった茶屋を江戸時代に現在の場所に

移したことから、新茶屋と呼ばれるようになった、

栗強飯が名物でした。


ここには、3つの碑がある。

芭蕉「送られつ 送りつ果ては 木曽の穐


その隣に在るのが、藤村の筆による「是より北 木曽路」の碑。

もう一つは、反対側の「一里塚碑」である。


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ここから先が難所と云われた「十曲峠」。長野と岐阜の県境であり、

「岐阜県中山道落合石畳」といわれ、800m位あり歩きずらい道である。

皇女和宮の嫁入りと明治天皇の行幸の際には、石の上に砂が撒かれ、馬が
すべらないようにした』 と、案内板に記されている。








その先の寺が医王寺である。

浄土宗知恩院末寺。古くは天台宗であったが、天正13年に再建された。

山中大師ともいう。
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本尊の薬師如来は行基が刻んだものだという。

三河・鳳来寺、御嵩・願興寺と並んで、三大薬師という。

江戸時代にはキツネ膏薬で有名だったところである。現在も売られているようである。

「続・中膝栗毛」では、

当初の名方狐膏薬、御道中足の痛み、金瘡、切傷、ねぶと、はれもの、所きらわずひとつけにて

なほることうけあい」と、その効能が記されている。

旅人は、旅に重宝な薬として買っていった。

境内には、芭蕉の句碑もある。

梅の香に のっと日の出る 山路かな


ここから先に行くと、木曽路が終り、美濃路が始まる。


 「西の入口」
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明治維新後、 中山道が廃止され、新たに出来た国道が木曽川に沿って行くようになった。 

更に、1912年、中央線が開通したが、馬籠は通らなかった。 

これらの結果、人の往来は絶えて、馬籠宿と妻籠宿は、陸の孤島化していったのである。
藤村が村を出た明治時代はまだ良かったが、「 村にはこれといった産業もない為、

大正、昭和と進むに連れ、貧困化がすすみ、その日の生活もままならない状況が続いた。 」と、 

山口村の資料にある。 


そこで昭和43年、長野県は、明治百年記念事業の一貫として、江戸末期のままの

宿場風景を再現しようと、 馬籠宿に焦点をあて、29戸に改築を進めた。 

その後、残る60戸も姿を変えた。
即ち、馬籠宿は、昭和の高度成長期に作られた、江戸の宿場町を再現したテーマパーク。


隣の妻籠宿は江戸時代から建物が残っているが、観光化へ一歩距離を置いたため、

集客力が弱く苦戦しているようである。

ですから、江戸時代の空気を味わいたいのなら妻籠へどうぞ!