北の外れにある鹿島祠。絵の舞台はここである。

鹿島祠は、昔、木曽在の真壁氏(常陸の土豪)が鹿島大明神を勧請して建てたものである。

雨宿りに飛び込んできた人々の姿を描いている。

メタボンのブログ

須原宿は当初からここにあったのではない。 

最初は、木曽川べりにあったのだが、正徳五年(1715)六月の洪水で被害を受け、

宿場の大部分が流失したため、2年後の享保弐年(1717)に、

より高い地を求めて、現在地に移転したのである。 


天保14年(1843年)人口748人、家数104軒。

本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠24軒。


入口に、倉本一里塚の碑]がありました。

江戸より74里、京都へ63里の一里塚の碑があります


新しい宿場であり、作る際に他の宿場の長所を取り入れ街作りを行った。

道幅を5間とし、中央には用水路を通した。

裏山から、豊富な湧き水を引き、宿内に合計7カ所の水場を作り、下水道も考慮され

宿場用水に流している。

用水に排水と防火の機能を持たせたものである。


古くから清水の湧く水の豊富な宿場ということですが、いたるところに丸太をくりぬいて

水を注ぐ水船があります。野菜や果物を浮かべ、夏は天然の冷蔵庫です。

 [水船と須原宿と書いてある石碑]には正岡子規
寝ぬ夜半を いかにあかさん 山里は 月出つるほどの 空たにもなしとあります。 


出桁造りと格子の民家が連なって残っている。古きよき風情の宿場町である 


道を挟んで本陣と脇本陣とが有り、それぞれが問屋と庄屋を兼ねており、

月に15日交替で務めたという。

本陣を中心に、30軒前後の旅籠が並び、花漬ととろろ汁が名物だった。


杉玉を掲げ「木曽のかけはし」という銘柄を醸造する[西尾酒造は脇本陣]

問屋、庄屋を勤めた家です。
大桑村資料では西尾家は「大永・天文年間(1522~54年)の頃、

信濃の須原に住し、地域の開拓に力を尽くす。木曽家の家臣として重きを成す。」とあります。

木曽義昌が下総に移封の後もこの地に残り、山村代官に仕えます。


メタボンのブログ
この地は耕地が少なく、住民は山の仕事が多かった。

中には、梅・桃・桜の花漬けを名物として売る店があった。

幸田露伴の「風流仏」は、

旅の仏師が美しい花漬け売りの娘に恋をする物語である。

現在も、花漬けを売っているそうです。


桜桜の花漬桜

八重桜を塩漬けにしたもので、熱湯を注ぐと、

花びらがフワッと開く。

四季の花漬けといい、梅・桜・桃・菊・ハッカ・茶の花が

入っていた。

吸物や杯洗いの中に浮かべたという。


   定勝寺
メタボンのブログ
定勝寺

臨済宗浄戒山定勝寺、木曽三大寺の一つに

数えられる名刹である

寺伝によると、永享2年(1430年) 木曽親豊創建。

現在の建物は、慶長3年(1598年)木曽代官の

石川光吉が再建、

桃山時代の豪壮な建築で、切妻造りの庫裏や、

方丈形式の本堂などに

禅宗寺院の特色がみられる。

山門・庫裏・本堂は国の指定重要文化財である。

檜造りの達磨大師の大座像が有名である。


   定勝寺
メタボンのブログ
寺の梵鐘は、人間国宝であった香取正彦氏作である。

木曽七福神の布袋尊霊場であり、境内には、

(民謡須原ばねその里」の碑が建てられ

この民謡は、常勝寺を建てた大工棟梁が

京から伝えたものだという。

ばねそとは はね踊り衆の意味からでた言葉という。 

5月5日に行われる花祭りで、

子供らによって踊られるという。



野尻宿と須原宿の中間にあたる大桑には、立場茶屋がおかれた。

天長院近くに19軒の立場茶屋があった、と記録されており、

別名、合いの宿といわれた。


天長院

臨済宗・地久山天長禅院。

天台宗であったが、後に、臨済宗に改宗された寺で、これもまた、須坂の定勝寺の末寺である 

木曽氏の祈願所として庇護を受けた。しかし、木曽氏の衰退とともに寺も衰退した。

文禄2年(1593年)現在地に移転。

江戸時代には、この天長院近くに、十九軒の立場茶屋があった、とあり、合(あい)の宿と
呼ばれたようである。  野尻と須原の中間に位置するので置かれたのだろう。