「岐阻街道 奈良井宿 名産店之図」  お六櫛の看板が見えます。
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天保114年(1843年)人口2155人、家数409軒。

本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠5軒。

町並みは東西に8丁5間、俗に奈良井千軒と呼ばれ、木曽11宿中、最も賑わった宿場である。

木曽11宿中最も標高の高い(940m)宿場町です。

国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、山深い宿場ならではの

面影をとどめている。


  「蓮子格子・袖壁」
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奈良井宿ができたのは古く、鎌倉時代の始め頃と

言われるが、慶長7年、徳川家康により、

中山道六十九の宿場が定められると、

奈良井宿もそのひとつに選ばれた。 

鳥居峠をひかえているので、大変賑わった。


宿場の長さは、八町五間(約870m)と、

薮原宿や贄川宿の約2倍の大きさがあった。


 





道の両脇には間口が狭く、奥行きの深い家が並ぶ。

その中の一軒、元櫛問屋・中村家。

天保の豪商・櫛屋中村利兵衛の屋敷で、塗り櫛の創始者中村惠吉の家である。


江戸時代の櫛は、髪を梳く櫛と髪を結う櫛と二種類あり、髪結いは数十本の櫛を持ち歩いていた。 

これらの櫛は、全て無地のものだったのだが、中村惠吉が塗り櫛を

考案して世に出したところ、江戸や上方の女性から 頭を飾る櫛 として人気を集め、

大成功を収めた。

この地特産の櫛製造と木曽漆器の技術を融合し、これまでにない新製品であった。


上問屋史料館は、奈良井宿の問屋と庄屋を兼ねた家で、奥の一室は、

明治天皇巡幸の際に行在所となった部屋で、当時のままに残されている。

問屋とは、大名や役人はもとより旅人のために伝馬や人足を管理する仕事である。


 「越後屋」階段
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越後屋はその1軒で、百七十年前の天保年間の建物で、

(一部改築されたが)営業している。 


部屋数が少ないのでなかなか予約がとれないそうです。 

部屋に鍵もないが、その当時の生活そのままである。


軒下には、明治時代のランタンがぶら下がり、夕方には江戸時代の袖行灯が出される。




又、徳利屋と云う旧旅籠があって、昭和15年まで旅館であった。現在も食事は出来る。


  「越後屋」囲炉裏・行灯
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  「鳥居峠」
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峠の登り口に在るので旅に安全を願って

旅人が祈願した鎮神社

別名 「 鎮大明神 」 ともいわれ、

「奈良井・川入の氏神で、祭神は経津主神。 

12世紀後期、中原兼遠が鳥居峠に建立したものを、

天正年間(1573~1592)に奈良井氏がここに移した。 




元和四年(1618)、疫病が発生したため、下総香取神社よりご神体を迎えて

鎮めたことから鎮(しずめ)神社という名が付いた。 

本殿は、寛文四年(1664)の建築。


マリヤ地蔵で有名な大宝寺。 

広伝山大宝寺といい、臨済宗妙心寺派に属する禅寺で、

「 天正十年(1582)、当時の領主、木曽氏の支族・奈良井治部少輔義高が建てた寺で、

大安和尚が開山である。 

江戸時代に入り、 明暦年間、玉州禅師が中興し、福島の代官・山村良豊が寺門を修造し、

万治元年(1658)には、現在の本堂を建てた。と、いうから、かなり歴史のある寺である。


木曽名所図会に、大宝寺の庭園について、「 寺の庭に臥竜樹あり、長さ五丈許
(ばかり) 義高の薬園の跡なり 」 と記述がある。

享保年間に作られたもので、地中に中島を築き、石垣と植栽でなっている。


マリヤ地蔵は、墓地に在り、昭和7年に付近の森から発掘され、頭部を欠き 

膝の上に抱かれた子供が手にもつ蓮の花は十字架に見える。 

キリシタン禁制の時代に、信者が地蔵の姿を借りて聖母マリアを拝んだのでしょう。 

子育地蔵になぞえて作られた石像で、もし、役人に見つかると捨てられてしまった、


八幡神社

鬼門よけの守護神として崇敬された。天正年間に社殿の造営が有り、享保15年に

祭礼が再興された。

祭礼には、一対の獅子頭があるが、雄の獅子頭だけ使われる。

理由は、作物の出来が悪かった時に、雌の獅子頭に滝の水を飲ませたところ、

雨が降りすぎたので、それ以降、雌は使わなくなったという事です。