此処は松本藩と尾張藩との藩境であり、
「是より南 木曽路」の大きな石柱が置いてある。
いよいよ、「1日中山の道」の木曽路である。
尾張藩領、天保14年(1843年)人口544人、
家数124軒。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒。
名の由来は、木曽名所図会によると、以前この地に温泉が在ったことに由来する。
「いにしえここに温泉有り、かかるがゆえに熱川(贄川)と名づく」とある。
宿の歴史は古く、天文年間で、永禄11年(1568年)相模国の海蔵寺に対して
発酵された伝馬朱印状に贄川の名が見える。
水に恵まれたところであり、豊富な水は土地の人だけでなく、旅に人にも恩恵を与えたでしょう。
水場は石で囲い、屋根で覆って津島神社や秋葉神社を祀っている。
その先、断崖を避けて下ると、桜沢の立場が有り、明治天皇が休んだという
石碑が有る。
その先に関所が有り、そこから贄川である。
木曽漆器は、木曽福島町(現在は木曽町)の八沢町がルーツであるといわれる。
八沢の竜源寺にある経箱はうるし塗りでできていて、そこには応永元年の年号
と作者名があることから、八沢では六百年前から漆塗りが行われていたことになる。
奈良井、薮原、平沢には、江戸時代初期に八沢町から伝えられたようである。
「漆器の里・平川」
贄川と云えば、木曽漆器の名産地として知られています。
豊かな森林資源と、漆器に
適した気象条件に恵まれ、古くから漆器の産地であった。
その始めは、慶長年間とされ、木曽の代官が
檜を伐採して作らせたのが最初である。
寛文5年から享保14年迄御免荷物を
取り締まる平沢番所が置かれていた。
600年の伝統の中で、「木曽堆朱」「ぬりわけ呂色」「木曽春慶」などの技法が有る。
現在も、100軒以上の漆器店が軒を並べている。
現在は、木曽漆器館があり、昔からの名品や漆器の製造工程や
漆の採取道具などが見学できる。
「板葺石置屋根の番所」
又、それを取り締まるために、贄川口番所が番所の北端にあり、戦国時代から在るとされている。
江戸時代、番所は、「木曽路北門の関」として、
婦女の通行と白木の搬出を取り締まった。
太田南畝によれば、「駅を離れて小高き処に番所あり。
尾張より番をすえて曲物の器を改むるという」とあります。
主な機能は女改めであり、地元の女であっても、名主の手形を必要とした。
その他に、統制品である漆器や曲げ物、木材などの監視に当たったという。
現在は、関所や街道交通に係わる資料を展示している。
諏訪神社
北の外れに在る。神社は、文武天皇の大宝弐年(702)の創建だが、天正年間にあった
武田軍と木曾軍との合戦の際に焼失し、現在の建物は、江戸時代後期の享保十七年(1732)
に再建されたもので、二間社流造り、こけら葺きである。
それでも、二百七十年以上経っている。 武田信玄が木曽義康を討った時に本陣を構えたという。
7年に一度御柱祭がおこなわれる。
又、麻衣廼神社も同じように7年に一度、御柱祭がおこなわれる。
御柱は「おんばしら」と呼ばれ、諏訪大社の境内四隅に立つ樅の木を
7年毎に建て替える神事。
漆器の産地・平沢は、国の「重要漆工業団地」の指定を受けている。
又、平成10年に行われた冬季五輪の入賞メダルは、木曽漆器技法によって
製作されたtものである。


