洗馬(せば)宿は、 朝日将軍 と呼ばれた木曾義仲と縁(ゆかり)のある土地である。
江戸時代盛んだった善光寺参りの善光寺西街道との追分でもあった。
昭和7年の大火で全焼したので、宿場らしいものはなにも残っていない。
「平出の泉」 鍾乳洞から湧く神秘的な水。
木曽義仲の馬を洗ったという故事から、
洗馬の名が生まれたという説が広く伝わる。
「大田の清水とて水あり。木曽義仲の馬をあらいひ所なり。故に、洗馬と名づく」
と、「東路記」にあります。
塩漬けの魚と野菜を煮込んだ洗馬煮が名物。
天保14年(1843年)人口661人、家数163軒。
本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠29軒。
善光寺詣りの客の増加が背景にあり、その御陰で、
宿場はかなり繁栄していたようである。
荷物貫目改所
東海道に、板橋、追分、洗馬の3ヶ所に置かれた。
規定以上の荷物が在った場合は、割増料金を取るのである。
伝馬の負担の減少である。
それぞれの25両ずつ助成金が出ていたが、
文政4年の改革で1カ所を廃止、
もう1カ所を合併させたことにより、助成金は廃止された。
行政改革です。
大田の清水
耕地の中から湧く麗水。飲料用として使われた。
旅人はここで汗をぬぐい、冷たい水を飲んで旅の疲れを癒したことだろう。
桔梗が原
甲斐の武田信玄が松本を根拠とした小笠原氏と合戦し、破ったところである。
江戸時代はかなりさびしかったようで、九州の商家の御内儀・小田宅子氏の「 東路日記 」
にもそれを暗示する文章があった。
『 桔梗が原という、こう(口へんに廣と書く漢字)野は桃の木やすみれが目を楽しませたものの、
雉子の声が聞え、 「 道をいそげども見えざりければ 」 という心もとなさ。』とあり、
江戸時代、このあたり一帯に横たわった荒地は旅人を萎縮させる雰囲気があったようである。
その先のT字路に、「 右中山道 左北国往還善光寺道 」 と彫った道標が建っている。
ここが北国往還(北国街道)との追分(分岐点)であり、
左を行くと、松本を経て、長野の善光寺に行ける道で
、善光寺西街道ともいわれた。
江戸後半になると、善光寺参りが盛んになったので、善光寺道は大変賑った。
最盛期には、善光寺参りは、年間20万人といわれた。
