天保14年には、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠28軒。
ところが幕末になると、旅籠の数が72軒になっています。
此処は別に飯盛り女が多くいるわけではありません。
その理由は、難所「和田峠」を控えていたことが一つ。
和田峠は、標高1600mもあり、道幅が肩幅くらいしかなく、しかも、冬になると
何処は道なのかも判らないくらい雪が降ったそうです。
もう一つの理由は、次の宿の「下諏訪宿」とは22キロも離れていたことです。
これだけ離れていて、しかも難所を越えるとなると、無理できません。
従って、泊って、峠を越えようとしたからです。
従って、宿場は繁盛したが、大事件が起こります。
それは、文久元年(1861年)3月10日。
中町から失火した日は、瞬く間に宿場を呑みこみ、焼け野原になってしまいました。
決まっていたのです。
難所を控えて、他のの宿場への変更も出来ず、
やむなく、幕府からの助成金も出たので
突貫工事をして間に合わせたそうです。
そして、和宮一行も無事に宿泊通過をして、
面子が保たれたといいます。
このときの和宮の一行の人数は、3万人といわれてます。
よく、そんな人が泊れましたね?
しかし、この宿場の栄華は、僅か7年後の明治維新とともに、参勤交代が無くなり
衰退の一途を迎えました。
江戸時代後期の様子をそのまま残している建物も多く貴重な資料になっている。
なお、ここには、黒曜石資料館がある。
和田峠からは、旧石器時代の黒曜石が出土し、特に、男女倉からは大量の遺跡
が発見されている。
古代には、黒曜石は通貨代わりになっていて、物々交換に使われました。
また、牛宿が有る。
当時の牛は荷物を運ぶ貴重な運搬をやっていて、信州方面からは「木曽の木材」
「お六櫛」などが運ばれ、帰りには塩やその他の物が運ばれたそうです。
そして、牛が泊れる宿が有って、「塩つけ宿」という大きな宿であったそうです。
牛に積まれた荷物は、和田峠・碓氷峠を越え倉賀野まで運ばれ、そこから川で
江戸まで運ばれた。
海の無い信州では、塩はとても貴重な品であり、塩を運ぶ牛は大事に扱われたのだ。
中村雨隣という人によって作られた。
無料で人馬が休憩できる施設である。
此の方は、江戸・日本橋で綿糸問屋を商っていて、
碓氷峠・和田峠が殊の外厳しいのをしり、
当時の金で千両幕府へ寄付したものである。
幕府はこの金を運用し、利息100両の
半分50両ずつを両峠に分けて
接待茶屋を運営した。
ここは、人は勿論、牛・馬にも粥や煮麦を施したので「施行所」として大いに感謝された
中村有隣こと「かせ屋与兵衛」は河内国の生まれで、隠居した後、箱根に2ケ所、
中山道でも碓井、和田の2ケ所に人馬施行所を設けたいと江戸の道中奉行に何度か願いでて、
80歳の時にようやく許可されます。
街道の宿、茶屋本陣について道中奉行は厳しく定めていましたので、慈善事業といえども
簡単に認可されませんでした。
町はずれには、和田の一里塚がある。
日本橋から、50番目の一里塚です。


