メタボンのブログ


天保14年(1843年)本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠17軒。

浅間三宿(追分宿、沓掛宿、軽井沢宿)の中では小さかった。

「沓掛」という地名は、全国に在るが、元々は、草鞋を穿き替える場所を指していて

難所を前にして、此処で草鞋を履きかえると疲れを知らずに歩けると信じていたのです。


沓掛は、碓氷峠を控えて軽井沢宿と善光寺街道の分岐点で賑わった追分宿に挟まれ、

目立つ宿場ではありませんでした。


   「さった峠」東海道の難所で知られてました。
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ただ、この地名が逆に幸いしたこともあります。

それは、和宮降嫁の時です。

本来は、東海道を通る予定でしたが、

何万人もの行列は支障をきたすという事も

有りましたが、東海道は縁起が悪いという

地名が多かったという縁起担ぎもありました。

例えば、今切の渡し。さった峠など、

切るとか去るとかの字は嫌われた。















皇女和宮はここに泊まりましたが、沓掛宿は、軽井沢3宿のなかでも寂しいところだったようです。

太田南畝が「沓掛の駅に人家まれなり。駅舎のさまわびし」と記しているくらい賑

やかな追分宿とは比べられないほどの小さな宿場でした。


中山道は、この時に道を整備されました。

ただ、ここまでくると次の宿場駅の「追分」という地名が縁起が悪いという事で

無理やり「相生宿」と急遽変更され、しかも、その地点に差し掛かると

猛スピードで通り過ぎたといいます。


しかしながらご存知のように、和宮は若くして死に別れをしたことは周知の通りで

和宮も明治10年に死去しました。芝増上寺の家茂の隣に埋葬されることになった。

歴代の将軍の正室で、夫と並んで埋葬されたのは彼女一人であった。


有吉佐和子著『和宮様御留』講談社・講談社文庫では、和宮は替え玉であったとされて、

テレビなどでも放映されました。


沓掛と云えば、長谷川伸氏が生んだ架空のヒーロー。男・沓掛時次郎。

知らない人の方が多いのでしょうね)

時代は過ぎて行きます。


では、今もベストセラーの蕎麦の話。

江戸時代は、この一帯は標高が高くて農作物は全くできませんでした。

唯一、そのような地でできたのが蕎麦です。

今は、色々な作物が生産できますが、江戸時代の信州は、荒地が多く

蕎麦くらいしかできなかった。

だから、蕎麦が名産になったという、蕎麦好きにとっては有り難い話です。

現在、蕎麦と言うと安価な昼食といったイメージがあるが、

本来蕎麦は石臼を手で回し、出来立ての粉でそばを打ち、身内の祝い事などの席で

親戚縁者に振舞う、手間隙をかけたもてなしの「晴れ食」だった。御馳走でした。

従って、幕府は、当初、うどん・蕎麦は贅沢品であるとして、百姓さんは、食べることを禁じ

られていました。中期以降になってからです。解除され庶民も食べることが出来たのは。
従って、忠臣蔵の時代には、まだ、蕎麦やさんはありません。



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この地域は、馬頭観音が多い。

信州はもともと佐久の三牧と呼ばれ、馬の産地でした。

江戸時代は、峠道や険しい道が多く馬や牛が多く使われ、

その牛馬を供養するために

馬頭観音が建立されました。

そして、馬は牧草を食べるように、人間の煩悩も食べてくれると

信じられていたので

馬頭観音は人間にも御利益があると思われ、

馬頭観音が建てられたのでしょう。





追分の一里塚が残っていて、日本橋から数えると40番目になる。

江戸から39里、京都からは91里目の一里塚で、京都から360キロ以上である。

沓掛宿は戦後、中軽井沢に名を変えて、大きく変貌を遂げてしまった。


沓掛は駅名が昭和31年(1956年)に中軽井沢駅に変わり、地名も中軽井沢に変更されています。


二十三夜塔

月待講によって造立された。

月を信仰の対象としたもののなかでも二十三夜講は最も普及し

精進、勤行、飲食をしながら下弦の月を待った供養の印です。