本によると、昭和初期頃は、絵のような風景が見られたそうです。
街道の両側には、水田と桑畑が点在し、古墳が有り、藁の屋根の農家が飛び飛びに
上尾の歴史は古く、約2万年前の旧石器時代(先土器時代)からの遺跡が
市内あちこちにある。
平安時代末期には、武蔵国にも武士集団が結成され、
鎌倉時代には、源頼朝に仕えた足立氏の勢力下にはいったが、
鎌倉幕府滅亡後は足利尊氏の所領となった。
中山道が開通すると、上尾に宿場が設けられた。
中世まで農村地帯であったが、用水の確保が困難なため、
水田よりも麦などの畑作が行われていた。
江戸時代に、上尾宿ができたが、人口が千人にも満たない宿場町で、
周囲の宿場と比べ規模が小さかった。
大宮から来ると、今の運動公園の近くに庚申塔が有る。
青面金剛像が描かれた下の台座には、 「 足立郡馬喰新田 講中二十名 」 とあり、
碑の右側面には、 「 寛政十二年十二月 」、左側には、 「 是より秋葉へ壱里十二町、
ひら方へ壱里八町、川越へ三里 」 と、地名と距離が刻みこまれて、庚申塔は、道標を兼
ねていたのである。
三叉路の右側の狭い道が、川越道であり、平方河岸を越えて川越へ続いていた。
暫く行くと、神社がある。
木曾路名所図会に、 「 賀茂村に賀茂祠あり 」 と、書かれた加茂神社である。
京都上賀茂神社を勧請したと伝わる加茂宮村の鎮守で、
御祭神は、別雷命(わけいかづちのみこと)、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)、
伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみこと)と菅原道真である。
中山道の浮世絵で、渓斎英泉の描いた木曽街道上尾宿の画は、この神社を描いている。
神社の創建はさだかではない。
文政七年、幕府によって作られた新篇武蔵風土記稿にもあることから、かなり古い神社である。
天神橋がある。 この付近は加茂宮村で、立場茶屋が置かれ、
島屋と福島屋の二軒が有名だった。
島屋は、加賀前田家の参勤交代時の休憩所に使われた、と資料にある。
蜀山人・太田南畝の壬戌日記にも、「 左に社あり、人家あり。天神橋の立場といふ 」 と。
飯盛り女の墓碑
天保14年(1843年)編纂の中山道宿村別帳によると、
宿場の長さは十町十間(約1200m)で、
宿内人口は793人、家数は182軒であった。
蜀山人・大田南畝の「壬戌(じんじゅつ)紀行には、
「 上尾の駅舎ひなびたり 」 とある。
本陣が1軒、脇本陣は3軒、旅籠は41軒あり、
宿場女郎が大勢いて、市もしばしば開かれたので
川越藩士達がよく遊びに来て
宿場は繁栄したという。
文化3年(1806)の中山道分間延絵図には、 中山道の右側が大宮、左が桶川方面、
画面下側の中央の鳥居が鍬大神宮で、その正面に本陣、その両側に脇本陣が二軒あり、
脇本陣の右に問屋場、さらに右の道の両側には一里塚があり、鍬大神宮の右側隣に、
もう1軒の脇本陣が、描かれていた。
川運の町であった。
江戸時代には
大きな穀物問屋があり、農作物などの集積地だった。
藩米や付近の特産品を江戸に送るには、
荒川を利用した方が有利だったため、
江戸との交通は、荒川を利用した川運が
中心になっていて、船着場のあった平方は、
上尾宿より賑わい、上尾宿の倍の1300人もいた。
江戸時代の記録によると、荒川の上流の秩父から始まり、
浦和の羽根倉まで6カ所の船着き場が設けられ、大いに隆盛を極めたという。
しかし、明治期になると鉄道の高崎線が開通すると、その価値を失い、鉄道や車の普及により、
舟運は衰退の一途をたどった。
又、現在、高崎線と東北線の分岐は大宮であるが、高崎線の開通時、上尾分岐案もあったそうです。
しかし、平方の舟運業者の反対により、大宮に決まったそうです。
もし、上尾に決まっていたら、どうなっていたでしょうね。
明治41年(1908)に、周囲の神社が合祀された
後の名で、もともとは、江戸初期の万治年間(1658~1661)に創建された、と伝えられる御鍬太神宮である。
「三人の童子が鍬二挺と稲束を持ち、白幣をかざしながら踊り歩き、上尾宿に来た。
童子たちは鍬を残し、いずこにか消え失せてしまった」
残された鍬を祭ったのが、神社の起源と伝えられ、
ご神体は小鍬である。
地元では、お鍬さまと呼び親しまれている。
また、墓地には、戒名が郭室妙顔信女と刻まれた、孝女お玉の墓がある。
孝女お玉とは何者か??
「 上尾宿の遊女のお玉は美しく気立ての良い女で、
参勤交代でやって来た加賀前田藩の小姓に見初められ、江戸に下ったが、
2年後悪病に罹って戻り、二十五歳で亡くなった。
主人や同輩がここに葬ったという。 」 (上尾市教育委員会)
上尾宿の南東にある原市は、戦国時代には既にあった町である。
中世末期に原村といわれた吉野原村(現在の大宮市吉野町)から、
宿場の部分が分かれて、原宿の名が生じ、後に、市場が立ち、原市になった。
原市には、三と八の付く日に市が立ち、街道に235軒の家々が軒を並べるほどの
活況ぶりだった。
道と家の建物までの間に、庭と呼ばれる約三間ほどの空間を設け、市の立つ日には、
そこが出店となり、主に穀物や前裁(木、草花)などを取り扱った。
また、原市は中山道の脇往還としても機能していた。
上尾宿は、江戸時代末期の安政七年(1860)の大火で、ほとんどが焼け、遺構は残っていない


