武蔵国の一宮の鳥居前町として誕生。
5街道最多の9つの脇本陣を持つ宿場町であった。
浦和宿から大宮宿は、1里9町なので、約5kmの距離である
「ケヤキ並木」
浦和を出ると、広い道に出る。
このあたりから、1.5キロ続く欅並木になっている。
左側は上木崎。 英泉による浮世絵、
「支蘇路ノ驛 ・浦和宿」中山道の浦和宿は
ここから浅間山を見た姿が描かれている。
ここは、六国見(ろっこくけん)といわれ、
六国が見晴らせる場所だった。
木曽路名所図会にも、「 富士(駿河)、浅間(信州)、甲斐(甲州)、
武蔵、日光(下野)、伊香保(上州)など、あざやかに見えたり」
と書かれている
高台橋(たかだいばし)に、近在の人達が建てた小さな社があり、
社の中には二体の石仏がある。
言い伝えによると、 「 大宮宿柳屋の女郎が、世をはかなんで高台橋から身を投げた のを、
哀れに思った村人が地蔵様を彫って備えたが、それ以来、前々からあった不動明王から、
夜な夜な火の玉が漂った。 」 と、ある。
この2つの石仏には、女郎地蔵と火の玉不動という名が付けれている。
大宮宿には、各地から集められた飯盛り女が大勢いたので、宿場の飯盛り女の
薄倖の死を悼んで建てられたものである
左には、高台橋の江戸時代の刑場跡があり、刑場に送られる罪人が橋の上で涙を流した。
高力河内守清長は、岩槻城主であったが、この地・針ヶ谷に陣屋を設け、陣屋内に稲荷を
祭り、出世神として崇めて、岩槻から参拝にきていたという、屋敷稲荷である。
高力清長は、仏の高力といわれた人物で、徳川家康の関東入国により、
岩槻三万石を与えられ、浦和郷一万石を預けられた。
廓信(かくしん)寺は、浦和郷一万石の代官中村弥右衛門尉吉照が、
旧主、高力河内守清長(岩槻城主)追悼のため、建立した寺と伝えられる寺である
寺の境内には、「 サツマイモの女王、紅赤通称金時は、北浦和(旧木崎村針ヶ谷)で、
明治三十一年(1898)に、山田いちにより発見された。 」 とあり、墓のある寺に
顕彰のため記した、とあった。
参道口には安政三年(1856)建立の常夜燈
そして木製の赤鳥居があります。
氷川神社表参道は古代の東山道で、江戸初期の中山道である。
表参道は、18町(約2km)の長さで、吉敷町の一の鳥居から
氷川神社まで続く。
治承四年(1180年)源頼朝が社殿の再建を行い、
徳川家康による社殿造営、境内整備、
慶長9年(1604年)には、社領300石加増。
後世になって、この300石が大きく貢献した。
氷川神社は、孝昭天皇三年四月創建という武蔵国足立郡の
古い神社で、延喜式でも武蔵一の宮として、
また、明治に入っても官幣大社と位置付けられた
格式の高い神社である。
明治期になって、氷川神社が一の宮か三ノ宮かの論争が有り、
結局、この幕府からの300石が実績となって、一の宮と認められたという。
道の反対側を少し入ったところに、庚申神社がある。
宝暦10年(1760)正月、大宮下町講中によって、建立された庚申塔が祀られていて、
石碑の正面に青面金剛像、そして、日月、二鶏、天邪鬼と三猿が、陽刻され、
側面には、「 南方北袋道、西方大宮宿、東方天沼道、北方社中道 」 と、
記され、道標にもなっている。
呼び名としては正式には「氷川」ではなく、「簸川」(ひかわ)が本当との事。
簸川は、出雲の国で流れる出雲第一の川の名前。
恐らくは、遥か昔、出雲族の民族がこの地の開拓に力を発揮したのでしょう。
古くはこの参道が中山道でしたが、氷川神社の神域を通行するは不敬になると
幕府が関東郡代の伊奈正治に命じて現在の新道を開設したと云います。
参道口の先辺りに大宮の一里塚がありました。江戸日本橋より数えて七番目です。
その先には、塩地蔵そして子育地蔵があります。
病に倒れた父親を二人の娘は塩絶ちをして、お地蔵様に祈ったところ
父の病が全快したと云います。
それからこのお地蔵様に塩を供えるようになったと云います。
参考までに、司馬遼太郎氏が「街道を行く」で氷川神社に触れているので掲載します。
「東京には氷川という地名や氷川神社が多く、関東南部特有の地名といっていい。
氷川という名は、埼玉県の大宮にある氷川大社から出ている。
埼玉県もまた、旧分国では東京都と同様、武蔵の国だった。
武蔵の国という分国ができたのは大化元年(645)で、当時、ほとんどが原野と森林の国だった。
国府は多摩郡の府中におかれた。
府中に、国府の社として、大国魂(おおくにたま)神社ができたが、
大社ながら、七世紀の新設だから、一ノ宮とはいわれなかった。
それ以上の古社として、氷川大社があった。
創祀はよほど古いらしく、出雲の国の杵築大社(現出雲大社)が勧請されたという。
古代に武蔵に入った人々は出雲系だったのかもしれない。
聖武天皇のとき、氷川大社は武蔵国の一ノ宮に列せられ、
武蔵の国の地の神神の筆頭になった。
このため、源頼朝が関東で幕府をおこしたときも、社領三千貫を寄進し敬意を表している。
それが先例になって、戦国期、小田原北条氏が関東を制したときも礼を厚くし、
また徳川家康が江戸に入部したときも、朱印三百石を寄進した。
武蔵といえば、氷川明神だったのである。
徳川家は、江戸城の鎮守神としても、氷川明神を勧請している。
ちょっと余談になるが、明治になって東京に遷都されたとき、
明治天皇は氷川大社に勅使を送り、一代のうちに三度参拝された。
この赤坂の地に氷川神社を鎮めたのは、八代将軍吉宗だった。」

