架かっていたことから、板橋の名が誕生。
江戸名所図会によると、
「駅舎の中程を流る石神井川に架する小橋あり。
板橋の名、ここに発る」とあります。
木製の長さ 九間(16.2m)、巾 三間(5.4m)の
緩やかな太鼓橋が架かっていた。
宿場の入口には、城門のような大きな木戸が設けられ、中山道から江戸に
出入りする旅人の 「 入り鉄砲に出女 」 を厳重に警戒していて、時間になると開き、
時間になると閉まる。門の脇には、貫目改所という役所が置かれていた。
板橋宿は、平尾、仲、上宿の三つから成っていた。
旅人をこの宿まで同行し見送ることが多かった為に酒楼や茶店も有り栄えたという。
天保14年(1843年)には、人口2448人、家数573軒、旅籠54軒を数えた。
江戸四宿の比較では、
千住宿(9,556人、2,370軒)、品川宿(7,000人、1,600軒)、内藤新宿(2,377人、698軒余)、
板橋宿(2,448人、573軒)と、板橋宿は四宿の中では最下位ながら、その繁栄ぶりは
中山道中随一であった。
なお、板橋宿は150人もの飯盛女を置くことが認められていた。
しかし、実際には、陰見世というのがあり、定員以外に5,10人とか抱えていたのが
実態であった。
江戸時代の娼妓のランクは品川が1番、2番が内藤新宿、3番が千住、4番が板橋。
木曽路名所図会には、「所々に花魁店前に並び、紅粉をよそほいて簪をさしつらねて
美艶を飾る、格子のうち、ゆきかふ旅客をとどめて、あれをこれをと
興ずるもの多し」とある。
品川に比べると、少し値段が安いというのは、上玉だけで、往来の旅人にとっては
品川と同じであった。
幕末、戊辰戦争の際、江戸へ向かって進軍していた官軍は、天璋院の書状により
この宿で停止した。
婚礼などには不評の「縁切り榎」がある。
此処には樹齢数百年の大榎があって、この下を通ると不縁になると云われ、
婚礼などはこの道を避け、逆に別れたいと思う人は、皮などを削いで
酒等で飲めば、別れられるともいわれた。
和宮降嫁の道中通過の時には、縁起が悪いと云われ、菰を被せられた。
寺では、本陣を務めていた飯田家の菩提寺であり、そして、飯盛り女の墓が
あることで知られている。
飯盛り女の大部分は、親の借金の質で売られてくることが多く、牛、馬と同じ扱いを
受けていた。従って、墓が有るのが珍しい。
先には、志村一里塚がある。一里塚は、今も昔も1時間で歩ける目安になっている。
今も、両側とも健在である。
その先には、志村の立場が在った。
そして、最初の難所の清水坂。曲がりくねった急坂で有名であった。
此処は、右富士と呼ばれ、右手に富士山が見える特別な場所で知られ、
皆立ち止まって富士を見て喜んでいたという。
名前の通り、天然の清水が豊富であり、美味しい水が飲めた。
ここ板橋である。
板橋駅東口には、新撰組隊士供養塔がある。
これは、生き残りの隊士である永倉新八が奔走し、
明治九年(1876年)建立、
自らの墓も脇にある。
然しながら、この碑に近藤勇の名を間違えて
刻んでしまった。
「昌宣」が正しいが、実際には反対に「宣昌」と彫ってある。
墓は、三鷹市の龍源寺にある。
右側と左側には、合計110名の隊士の名が書かれている。
加賀百万石・前田氏の下屋敷があったところである。 その敷地は広大なもので、
前述の板橋から東方一帯全てが前田氏に与えられた。
この屋敷も板橋宿の発展に大いに貢献した。
丹船山薬王樹院東光寺といい、開山は、芝増上寺第五世天誉了聞上人、
江戸初期までは船山の地にあったが、前田家下屋敷が開設されるため、
現在地に移転させられた、
又、東光寺には、関ヶ原の戦いで敗れ、薩摩にのがれ、後に、八丈島に流され亡くなった
宇喜多秀家の供養塔が在る。
宇喜多秀家の供養塔は、慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いに敗れ、八丈島に流された
秀家の子孫が建立したものである。
秀家の子孫はその後長く八丈島を出ることを許されず、
明治二年になってようやく赦免され、前田家の縁をたどって
この近くの加賀藩下屋敷に移り住んだ。
この墓は子孫が伝えて来た遺髪を埋め建てたもので
正面に「秀家卿」と刻まれている。
でも、なぜ、ここまで幕府に憎まれたのでしょうか?理由が判りません。
(秀家の妻は、前田家から出てます)
福島正則との逸話があります。
秀家は八丈島に流罪になります。
その後釜に、福島正則が領主になります。
或る時、荷を積んだ船が八丈島の近くを通りました。
秀家は、沖を行く船を呼び止め、船は島に寄り、秀家と話をしました。
その船が旧領・備後の荷を積んだ船と分かると、秀家は、酒を所望し分けて貰えます。
江戸到着後、正則に報告すると、正則は、その処置を大いに喜び、
改めて、酒を送ったそうです。
しかし、その正則も改易の処分を受けて取り潰しになりました。



