板橋宿まで9,8キロ。
家康が慶長8年(1603年)架けました。長さ43間。
天正18年(1590年)徳川家康が北条氏に代わって、入府します。
「武江年表」によると、「今年8月1日、台駕始めて江戸の城へ入らせ
給へり、そのころお城の辺り、葦沼汐入等の地にして田畑も多からず、
農家寺院さへ所々に散在せしを、慶長に至り始めて山を裂き地を均し
川を埋め溝を掘り、士民の新居を定め給ひしより、万世不易の大都会となれり」
江戸の開発の状況です。
東から西へ歩くと東海道、反対に東から西へは中山道。
中山道や中仙道、木曽街道、東山堂など、色々な名で呼ばれたが、
正徳6年(1716年)に幕府の通達によって、「中山道」に統一された。
しかし、庶民の間では、木曽路、木曽街道の名で呼ばれた。
以前、テレビで横書きされていた「旧中山道」を「一日中山道」と読んで
大クレームとなったそうです。
しかし、実際にこの道を歩くと、間違えて読んだのでは無い。と、思うほどです。
特に、碓氷峠に入ると山道が続き、木曽に入れば、どこまでも
山道ですから、文字通り、「一日中山道」の言葉がピッタリです。
橋の中央に道路元標を設置、京まで135里(533㌔)、69次。
昔の旅人は約15日で歩いた。
江戸名所図会によると「江戸の中央にして諸方への行程もこの所より定しむ」と。
橋の橋名標の字は「にほんはし」15代将軍慶喜の筆によるもの。
欄干には、守護と繁栄を願う麒麟・龍・獅子がのってます。
橋の袂には、乙姫様をかたどった魚河岸記念碑。
大正時代、関東大震災後に築地に移転しています。
では出発です。勿論、道中唄にあるように朝七つ立ちです。(午前4時)
歌の通り、明るくなる頃は、高輪・品川です。
神田方面を目指します。
神田祭りで有名な神田明神・幕府の直営の学校だった湯島聖堂を通り、
その先に「かねやす」があります。
「本郷もかねやすまでは江戸の内)と詠まれたお店で、江戸時代は「乳香散」という
歯磨き粉で評判の店でした。
白山神社は、天暦年間(947~957)に、加賀一宮白山神社を本郷1丁目の地に勧請した、
と伝えられる古い神社である。
元和年間(1615~1624)に、二代将軍秀忠の命で、巣鴨(現在の小石川植物園内)
に移したが、明歴元年(1655)、五代将軍綱吉が館林藩主(将軍職につく前)となり、
屋敷を造営するため立ち退きになり、現在地に移ったのである。
この縁で、綱吉と生母・桂昌院から、厚い帰依を受けたとある。
その先には本念寺がある。 日蓮宗の小さな寺です。
よく引用させていただいてるので素通りできません。
「壬戌紀行」の著者の大田南畝こと、蜀山人の墓がある。
裏の小さな墓地の中央に、大きな墓石の一面だけに、
「 南畝大田先生之墓 」 と、彫られていた。 辞世の句は
「生き過ぎて 七十五年 くいつぶし 限り知らぬ 天地の恩」
大円寺がある。 正式には、金龍山大円寺といい、曹洞宗の寺院で、
本尊は、聖観世音菩薩である。 寺に入った正面に、「ほうろく地蔵」と、
呼ばれる地蔵が祀られていた。
この名の由来は、この地蔵さんは、八百屋お七が火あぶりの刑に処せられた時、
火を被って焦熱を和らげたという。
その後、焦熱を和らげた火傷や首から上の病(頭痛、眼病、耳や鼻の病など)に
霊験あらたか、ということで、江戸時代には女性の信仰を集めたといわれる。
しかし、八百屋お七の墓は円乗寺に在り、左側に小さな建物があり、その中央に、
八百屋お七の墓があったが、墓はかなり削られて、彫られた字が見えない。
又、この近くには、歴史的に価値のある場所が有ります。
弥生式土器発掘之地の記念碑が建っている。
明治中期、このあたりで多数の土器が発掘されたが、発掘地の向ヶ丘弥生町から弥生式と
名付けられ、以後、この様式の土器が出土する時代を弥生時代と呼ぶようになった。
「赤門」御守殿門ともいう。
加賀前田家に嫁入したオットセイ将軍家斉の姫の為に
作られた東大赤門を通り過ぎます。
幕末、上野戦争の時は、此処から、佐賀藩の
強力な砲・アームストロング砲で、ここから砲撃し
勝敗を決定しました。
右には、柳沢吉保が設計した大名式庭園の代表格の六義園があります。
先には、追分が有ります。
右に曲がると王子、直進は岩槻街道、左は中山道。
此処には一里塚が有りました。
中山道の一番目の一里塚があったようである。
一里塚は、日光御成道との分かれ道にあったことから、追分一里塚と呼ばれた。
一里塚とは、宿場間の駄賃を算出する大切な目印であった。
基本的な一里塚は、1里毎に9m四方の塚を築かせ、上に木を植えて
目印にした。(木は、色々な種類を植えたようです。大体欅が多い)
幕府が、天保末に調査した記録があって、日本橋から草津までに一里塚が
107箇所あったという。
(実際には、129里ですから、既に22箇所が不明になっている。
入口には、江戸を守護する六地蔵がある真性寺。
旅の安全を願って建てられました。
像高は、2m68cmもあり、約1万2千人の寄進者の
名が刻まれている。
鎌倉時代から続いた地蔵信仰。
ちなみに、他の地蔵は、1品川。2四谷 3巣鴨、
4山谷、5深川、6深川永代寺。
永代寺のだけ、行方不明になってます。
境内左手には、芭蕉の句碑がある。
寛政五年(1793)、芭蕉の百年忌に当り、
採荼庵梅人とその社中により建てられたものである。
正面には、「志ら露も 古保連ぬ萩の う禰里哉」
(白露もこぼれぬ萩のうねりかな)
という芭蕉の句が彫ってある。
そして、明治24年に下谷から移ってきた「とげぬき地蔵尊」の高岩寺。
それを過ぎると板橋宿に入ります。
「旅立ちと見送り」
昔の旅は危険が多く、水杯を交わしての旅であった。
従って、出発には別れを惜しんで見送り、帰りには喜んで迎えに出た。
江戸から京までの場合は、品川までが送迎が普通で、逆に京からならば
大津まで、大体3里の距離が目安である。
蜀山人・太田南畝が、出張で大阪へ行く時のことです。
生憎の雨にもかかわらず一行は品川の品川寺まで送り、向かいの鍵屋で別れの盃、
一部の人は、更に大森まで行き、ここでも1杯。
そして、尚、江戸から4里の六郷の渡しまで見送り、ここでも1杯。
そのあと、南畝は、駕籠の中で寝込んでしまったそうです。
絵の右に見える家が、芭蕉庵。ここから出発した。
更に、松尾芭蕉の場合は、
元禄7年(1694年)最後の旅に出ますが、
この時、芭蕉は老衰を悟っていて、
師弟共々、口には出さずとも、
永の別れになるであろう
思いを持っていたのでしょう。
品川に来ても、まだ、名残が尽きず、
更に2里、川崎の外れにまで来て、別れを告げた。
しかし、門人の曾良は、体力の衰えた師匠と、
初旅であるお供の少年を配慮し、
更に二泊して箱根まで行った。
そこで見送ったのが最後となった。
雨の中を角を曲がる師匠を、
そこで見送って、江戸へ帰るのであるが、
その時の句。
「ふっと来て 関より帰る 五月雨」
ふっと思い立って、曾良は箱根まで見送ったのである。
その距離、実に24里28丁。100㌔以上になる。
芭蕉の別れの句
「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」
この句碑は、今、京浜急行八丁畷駅前にある。


