左手前に「小岩・市川御関所」という関所がある。
10坪くらいと伝えられている、もっと大きな規模のようである。
利根川と有るのは、今の江戸川である。
有名な村尾嘉陵「江戸近郊道しるべ」文化4年(1807年)によると、
「半里ばかり行けば市川の関、伊奈友之助といへる御代間の守れる所なり。
されど、関は名のみして、入る方もでるかたきなし。
この水1升の重さ300匁、或いは390匁、全ての水に比べれば、
140,150匁軽ろしと、棹さす男いへり」
関は殆ど、機能を果たしてない様子、そして、川の水が軽いというのは、
水の透明度がかなりあったので、棹を扱いやすいという意味であったのでしょうか?
関所の隣は、直ぐ渡し場になっている。
向う側は、下総国の市川である。
渡船の仕事は市川村が管理していた。
船頭は10人、2艘の舟と番小屋などがあった。
右に折れ曲がると、大洲への脇道になる。
逆に左に曲がると、国府台から松戸へ通じている。
途中に根本橋がある。川は真間川である。流が8キロほどの短い川である。
往昔、この辺は海であり、入り江になっていた。
江戸時代に頃は海は遠くに去り、平坦な土地になっていた。
祭神は日本武尊。今は、国府神社という。
坂道を上がると国府台。
そこに樹林に囲まれて総寧寺がある。
曹洞宗、
寺格が高く、関東の禅寺を総括している。
創建は永徳3年(1383年)、天正3年(1575年)北条氏政により
下総・関宿に移転した。
しかし、しばしば洪水に遇う事から、1663年4代家綱の命により、
現在地に移ったという。
長い参道が印象的である。現在では公園になっている。
この丘陵地帯は、武将たちの攻防の舞台に度々なり、北条氏と里見氏と
死闘がくり広げられた。「里見諸将群霊墓」が林の中にある。
湧水がある。
今も出てるが、水に乏しい高台にとっては
生命の水であったろう。
空堀もしっかり残っていて古城の趣を残している。
下は深い淵である。
鐘ヶ淵と呼ばれた。里見軍が陣鐘を落したからという。
この台地からは、西は葛飾、多摩の連山、
富士山をも望むことが出来た。
風光明媚な地であるため、国府台8景といわれた。
国府というのは、大化の改新によって全国の60余の国に置かれた役所である。
又、天平13年(741年)各国に国分寺・国分尼寺が建立された。
国府が地方政治の中になるであるから、まず、立地条件を満たさねばならない。
交通がよく、水に恵まれている、災害の恐れが少ないなどである。
そのように考えると、国府はその条件を満たしているようで、居住に適していたのでしょう。




