ゆったりと流れる荒川の水面を。今1艘の 渡し船が渡っていく。
馬を載せてるので重いのか船頭が2人で竿を押している。
手前が板橋側、岸辺には舟を待ってる人が、まだかまだかという感じで待っている。
次から次と人がやってきて、向う岸でも同じようもので、途切れることが無い。
この渡しは、商用公用で行き来する旅人などでにぎわいをみせていました。
戸田渡船場には46戸の家があり、船役人・水夫・小揚人足として渡しの仕事に従事し、
旅人相手の店などもひらかれていました。
大名や公家も利用しており、大名や公家の通行のときは、大勢の人々がかりだされて
多くの負担を求められました。
天保13年(1842年)の記録では、渡し賃は一人平水3文、中水6文、出水12文。
この渡し舟は、明治8年中止になった。
向う岸の部落裏の方はを見ると、田圃の先にこんもりとした森と小山、
そして「はぐろ」の文字が見える。
この神社は、今の戸田ボートの辺りになるのでしょう。
市史によれば、(この神社は宝徳2年(1450年)出羽国の羽黒山の神霊を移したもので
境内に神木があって木の穴から霊泉が湧出している。
この木が古くなって枯れると、又別の木から流れ出てくる。
百年の旱魃でも涸れたことが無い。この水はどんな病気でも良く利くので評判である」と。
「新編武蔵風土記寄稿」にも、社殿の後ろに榎あり。二股になった所に水を湛えて居る。
この水は乳の出ない夫人に効き目が有り、万病に効能がある)と記している。
男が木を伸ばして木の後ろにたまった水を採ろうとしており、お婆さんは木に向って合掌してる。
江戸時代、人々は神仏は勿論、色々なものに奇跡や卓功を期待した。
築地の稲葉対馬守の屋敷には、石造の老爺と老婆がおり、米ともちと豆を供えれば
小児の百日咳に効くと信じられていた。
大名の屋敷内であったが、門番に頼むと快く通してくれたという。
上記の事は、「江戸塵拾」、「江戸砂子」に書かれている。
又、江戸・市ヶ谷八幡の茶の木稲荷は、眼病に効くという話は知られていた。
柳田国男「日本の伝説」には、関の「をば様」として紹介され、
墨田区史も弘福寺の欄で触れている。

