その昔、ここを舞台にして戦いが何度も繰り替えされた場所である。
中でも元弘3年(1333年)新田義貞と鎌倉北条方との戦いは有名である。
その際、北野天神は新田義貞の本陣になった。
北野天神の神域は廻りのと土地に比べると小高くなっている。
規模は、江戸期の記録によると、山林田畑合わせて2万坪あったという。
本殿の周りをグルッと境内神が並んでいる。
明治2年の記録によると、全部で25社あったという。
ちなみに「北野天神」といわれるようになったのは、995年(長徳元年)に
京都の北野天満宮を祀ってからとのこと。
家康から8石の朱印を得、慶安2年(1649)家光から50石の加増があった。
それぞれが謂れのある神々である。
中でも、右手に文子宮とあるのは、別名機宮(はたのみや)といい、
養蚕・機織り・裁縫などを司る天羽槌雄神が祭神である。
拝殿の前の老樹は、1590年(天正18年)、「菅原道真の子孫」と公言していた
「前田利家」が小田原攻めの際に「北野天神」に立ち寄り、
武運長久を願って植えたのがこの梅の木だそうです。
「利家」の官職に因み、「大納言梅」といわれているとのこと。
右のは、尊桜といい、日本武尊が東征の折に植えたものを代々継いだものだという。
「菅原道真」といえば、
「こち吹かば にほいおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」という和歌や、
左遷された「道真」を慕って、梅の木が一夜のうちに太宰府に飛来したという
“飛梅伝説”などの、梅にまつわる話がよく知られていますよね。
そうしたことを受けてか境内にも梅の木が一杯です。。
その他、家康が1591年の時に植えた将軍桜、尾張徳川家藩主が植えた
中納言桜などもある。
この神社の祭神は、菅原道真で、長徳元年(995年)の創建と社史は伝える。
享保7年(1722)4月1日から6月1日まで北野天神社の御本体が
目白不動尊の境内に遷り、出開帳 しました。
北野天神社側からの申し込みを、人気絶頂の目白不動尊が受けたものですが
おびただしい江戸市民の参詣があったとされます。
享保7年(1722年)目白の長谷寺観音堂で、出開帳を行ったが、その時、御神体を長谷寺まで
運ぶ道具の数を相手に知らせた「道中覚」が残っている。
その内訳は?
神輿、神輿担ぎ10人、迎え町人100人、先払い4人、端4人、鉾、弓2丁、挟み箱2つ、
乗物1丁、立傘、靴籠1つ、合羽籠1つ、6尺4人、槍持ち2人、挟み箱持ち2人、
牽馬口取2人、合羽籠持2人、押さえ足軽1人。
立派な行列です。見た目が必要です。
学問の神様に合格を祈る絵馬。



