鯉ガ窪とも書かれたという恋ヶ窪。 現在の西国分寺駅北側にあたる。
恋ヶ窪は、周りを丘に囲まれた盆地である。
多くに豊かな湧水があって、池を作っていた。
中世の頃は、鎌倉街道の宿場町として知られた。
鎌倉街道の両側に広がる一帯は、江戸時代・享保年間に多くの新田が開発された
地域である。
道沿いの流れは、明暦3年(1657年)掘削された鯉ガ窪用水である。
北を流れている玉川上水から水田の用水として引水したという。
その池の中に、「姿見の池」がある。
昔、宿場の遊女の一人が、武将・畠山重忠と熱愛に落ち、ある時、重忠が
遠征してた際、2人を妬む人が「重忠は戦死した)という嘘をつき、遊女を自分に
なびかせようとしたが、本当にした遊女は、池に身を投げてしまった。
後に、重忠が菩提を弔って阿弥陀堂をそうけんしたという。
その阿弥陀堂は、絵の左手前に描いてあるが、現在は無く、墓地になっている。
重忠といえば、義経の平家との戦い。
一の谷・ひよどり越えの決戦が有名です。
山の上からの、馬に乗っての逆落とし戦術。
平家の本営の裏側に出ようとするものでした。
その時、重忠は馬を担いで崖を下りたそうです。
(しかし、この時は重忠は参加していなかったそうですが)?
絵を見ると、鎌倉街道が蛇行して行くと、右手に熊野神社がある。
元弘・建武の頃に戦災で焼失したといわれている。
絵の右手上に八幡社:傾城の松がある。
通称「まがり松」と呼ばれていた。
又、先の遊女の詩を哀れんだ里人が1本の松を植えて墓標としたが、
その松は、一重の松であったという。
絵の文は。
「回国雑記 恋ヶ窪といへる所にて 朽ち果てぬ名のみ残れる恋ヶ窪
今はた間も契ならずや 道興准后」
牛頭天王をまつる信仰は、もともとインドから
中国を経て伝わってきたものですが、
わが国では、疫病や農作物の害虫そのほか
邪気を払い流し去る神として、
古代より定着したようです
貞観11年(869)のこと。 京の都に疫病が
流行し多数の死者がでました。
これはきっと、牛頭天王の祟りだという
噂が都に広まりました。
そこで祗園の社に牛頭天王をまつり、
疫病退散を祈願して鉾をたて、
祈願したのです。
これが現在の祇園祭の始まりとされています。
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