メタボンのブログ
この渡しは、 町田や小田原へ旅する人がよく利用した渡しである。

又、江戸から津久井までの街道を繋ぐ唯一の交通手段として
利用され、江戸末期には宿場として繁盛していた記録が残っている。


天保9(1838)年ごろ、宿場だった登戸村では農業の合間に

いろいろな商いを営む農間渡世者が86軒を数え、

旅人宿4軒、湯屋4軒、居酒屋13軒などで賑わっていた。

又、相模で生産される黒川炭や薪、年貢米、柿などが運ばれた。

幕末の頃には、津久井・愛甲の地域の絹が、この渡しを通って江戸へ運ばれたという。


名の由来は、2つある。

多摩川の河原から丘陵への登り口だったところから名づけられたとする説である。

いま1つは、アイヌ語の「ヌプルット」から生まれた地名だとする説である。


登戸」の地名は、千葉・埼玉・静岡の各県にも見られるが、いずれも地形が似かよっており
河川の低湿地帯だったところである。

彼方に見えるのは多摩の山々である。

向う岸は登戸の集落である。


多摩川は水枯れの時期と見えて、板橋が懸かり馬が通っている。

石ころがゴロゴロしている河原は、ずっと先の方まで見えるが、流れらしきものは無い。

河原の中に置いてある蛇籠が丸見えである。

是では、渡しの商売も上がったりであろう。

橋の袂に渡し船が3艘繋いでいる。


川筋の定まらない多摩川は、洪水のあとに両岸の村々で境界をめぐって激しい
争いが起こった。

同時に渡し場でも権利争いがつづき、「登戸の渡し」では、

対岸の和泉村と宿河原村との間で激しく争われていた。

当時多摩川は、流路がしばしば変わり、その度に渡し場も動いていた。


多摩川が平水より3尺の増水となると、船は出ないことになっていた。


今日は安泰である。旅人にとっては楽であろう。


お供を連れた女性が河原や遠くに見える山々を見ながら、急いでいます。

お供の爺が担いでいるのは、何でしょうか?

後ろは衣類のようです。何処へお出かけなのでしょうか。



向こうからやってくる、行商人の人は、息を切らして喘いでいるようです。

かなりの急坂があるのでしょうか?


土橋の先にある茶屋は、旅人目当てらしく、煙が立ち上っている。

向う岸の堤防に、人らしきものが見える。