広々とした景観が目の前にあります。現代の川幅よりも広い感じがします。
右手前にくねくねとした堤防が見えます。自然なものではなく人工的な感じです。
堤防が不完全な当時は、流れが毎年変わるのは当たり前であったでしょう。
堤防を支えるものとしては、、右手には、逆茂木が有り、左手には、竹で編んだでしょう
蛇籠、その中には五郎太石が入ってるのでしょう。
この堤防は、往還の役割を果たしてるらしくて、人が往来しています。
五郎太石?
土木に欠かせないものであり、家康が尾張徳川家の祖・家康9男・義直誕生の際、
幼名は当初、千々代(千代)であったが、その資質を見抜いた父の家康が、
徳川家の要の石になるようにと、石垣を重ねる際に石と石の隙間に詰めて
重宝される小石「五郎太石」に因んで「天下の首尾になる」という願いで
五郎太丸と改名させた。
以降、尾張徳川家の嫡男は代々五郎太丸が幼名となる。
手前右にある地名、緒方、和泉、駒井などは現在の狛江市に残っている。
対岸の部落は登戸市であり、上流には矢の口の渡しが見える。
多摩川の清流には鮎も多く、絵には釣竿をかついだ人や釣糸を垂れる人、
四つ手網を引き上げる人など、鮎をとる人々が点在しています。
秋の鮎は初夏の若鮎に対して落鮎(おちあゆ)または錆鮎と呼ばれ、
『柳多留』に「玉川の秋は景色も鮎も錆」の句があります。
絵を見ると、水の中で漁をしている人もいるし、左手では、鵜飼らしき人もいる。
幕府へ献上する鮎は、鵜飼で採った鮎であるという。
流が変わるたびに、造り替えていたのでしょう。
絵の文にも、「雨後には、渡口移転して定まることなし」とあります。
右手には、一本の紐状が見える。両端は棒で支えている。
この紐に縋って流れを渡るものなのでしょう。
多摩川と云う名は、往古から色々な書き方をされてきた。
多麻、多摩、或いは田波、多波など本によってさまざまである。
古くから、富士山と共に、東西を旅する人にとっては、話題に上がることが多い。
「玉川にさらす 手作りさらさらに 何ぞこの子の ここだかなしき」
万葉集
「さらし布 霞の足しに そびえけり」 一茶
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徳川家康