現代の銀座5丁目辺りである。
名前の由来は、元、伊予国今治藩・松平采女正定基の屋敷であったが、1724年正月の火事で
移転し空地となり、采女が原と呼ばれた。後に馬場が開かれ、店や大道芸人が出て賑やかになった。
向こう側の道を大名行列が行く。
大きな屋敷は、松平出雲守(三河国西尾藩・6万石)の屋敷です。
ここは、享保の時代(1727年)の頃から、貸馬が盛んになり、武士が嗜みとして馬を自在に操ることは
必要な事であり、ここで習得に励んだ。
将軍吉宗は、質実剛健の家康の時代に戻ろうとし、武芸を奨励した、実際、この時代の旗本は
馬にも乗れない武士が多く、吉宗が上覧した時も、旗本が馬に乗ったままで動けなくなり、
見かねた将軍が指示を出し助けられたという逸話が有るくらいです。
落馬をして、転がっている武士もいて、痛烈な印象を与えます。
馬場の手前には、葭簀張りの小屋が幾つもあり、食物屋、見世物小屋、大道芸の小屋などが並び、
町人達が楽しんでいるのが判る。
一番左の小屋は、馬を繋げるような施設もあり、女浄瑠璃らしい芸人がいる。
隣は、茶店のような感じ。その隣の店は、芝居小屋らしく入りきれない人で一杯である。
向こうには、万年橋が見えて、やはり、茶屋が並んでいるのが見える。
武士が一生懸命練習している隣で、町人が楽しく遊んでいて共存しているのが
この絵の面白さでしょう。
馬術の歴史は古く、古墳時代の遺跡からも馬具などの出土が有るので、飼い方や乗り方等については
知識が有ったのかもしれない。
馬術として認められたのは平安時代末期の頃で、鎌倉時代になると徒歩の戦いから騎馬による戦いへと
移り、馬術も理論的になり、大坪流や小笠原流が生まれた。
変わったところでは、吉宗は実戦的であるからという理由で打毬(今で言う、ポロ)を奨励し、
各藩もこれを励んだので、技も向上しました。
江戸時代になると、家格に応じて馬も規定されたが、物価も上がるなどし、武士の家計を圧迫して
馬の飼育が困難になってしまい、馬に乗れない旗本は珍しくなかった。
その為、将軍吉宗はよけい馬術を奨励した。
「絵本江戸風俗往来」によると、正月2日は千石以上の若君の
「乗馬初め」であると記している。
