忠臣蔵が起きたのは、家康が幕府を開いてから約100年後、お米の値段は5倍くらい上がっていました。

しかし、武士の給料は?上がる訳ないですよね。生活は当然苦しくなります。それを頭に入れて下さい。


赤穂浪士の一番禄高の多いのは大石内蔵助1500石取りです。幕臣とは違いますから、家来の数も決められてませんから比較的家計は潤沢でしょう。

しかし、末端は給料が少ないですから大変だったです。では、その一例を。


金奉行・中小姓である前原伊助。彼は、10石3人扶持。

10石全部手元に入るのではなく、4公6民とすれば、10石の内、4石です。1石1両ですと4両が入ります。

1人扶持は1,8石の米ですから、1石1両ですと5,4両。合わせると4+5.4=9.4両です。

ちなみに、幕臣の同心が30俵2人扶持で14.6両ですから、それより少ないです。

但し、同心は足軽扱いで、金奉行は武士です。如何に藩士の給料が低いことが分かります。


ですから、自給自足は勿論で遣り繰りをしていくしかないですね。大体どこの藩士もそうだったようです。

国にいると、買うものは少ないので、何とかやっていくそうです。江戸勤番が問題です。

ちなみに、前原伊助と同じくらいの給料の藩士は、10人くらいいますし、それより少し多い藩士も同数くらい居ますので、浪士の半分は安月給の身分です。生活自体は同様に苦しかったろうと思います。


そこで疑問が出てきます。映画・テレビでは火事装束の格好で討ち入りしますが、それは誤りでして、揃いのユニフォームなどある訳ありません。金が有る訳ありません。


赤穂藩が、城を開城し藩士がそれぞれの家を退参する前に藩から支給されたお金は、1年分の給料にも及ばない金額でした。前原でしたら、一桁のお金でしょう。

1両が6000文で計算しても、長屋生活でも一か月の家賃が500文として、2年で2両が家賃で無くなります。


それから、討ち入りまでの2年近くをどうやって生活していったかを考えると悲惨なものであったと思います。

それぞれの所から江戸へ向かう時には3両支給されてますが、その金額では、江戸にも辿り着かなかったでしょう。ですから、売れる物は売って生活をして(筍生活)、只、その日を待っていたのではないでしょうか!


江戸留守居役を務めた浪士の手紙が残されてますが、彼はその手紙の中で、何としても武門の面目を立てるのを第一として、ひたすら待つ。それが為に、餓死をしてもやむを得ないという意味の手紙を残してます。

浪士の気分を表してるような気がします。、


浪士は江戸で分散し、本所周辺に住み、前原伊助は米屋さんをやっていました(誰かスポンサーがいたのでしょうね)


ですから、討ち入りの際、どのような服装をしたかと言いますと、浪士は我慢して売らずに残しておいた唯一の家紋の付いた黒い小袖を着て、それを尻からげにして、十文字に襷掛けし、下に股引を履き、黒足袋に草鞋という格好で討ち入りしたのです。

奉行所同心に似た格好で非常に動きやすい格好ですね。(しかし、イメージが壊れますか)

目印として、着物の襟に名前を書き、肩に目印の布切れを付けて同士討ちを避けるようにしました。

一人だけ、火事装束で居たのが、大内内蔵助です。でも、陣太鼓は持ってませんから、山鹿流の太鼓も勿論ありません。

そして、正しく伝わってるのは、徒党を組んでの行動を怪しまれたら大名火消であると言うつもりであったことです。


では、いよいよ討ち入りは次で。