江戸も120万の人口を抱え、ますます野菜の需要が増大し、農家も米よりも野菜作りに力を入れ野菜の飼育に必要な肥料として糞尿は必要性を増しました。
野菜は、10日早く出荷すると値段が数倍違うという事もあり、農家は競って野菜作りに励みました。
特に江戸の糞尿は食べ物が良いせいかブランド品で人気が有りました。青山、赤坂、麹町のは特に人気あり。
農家は役人や大家と汲み取り契約を結び、互いに値段の交渉を行い、糞尿の値段が上がると野菜の値段も上がったそうです。
江戸での、大量の供給所は江戸城でした。本丸、二の丸、西の丸、大奥とあり、特に大奥には多数のトイレが有り、
江戸城での汲み取りは、葛西村の百姓権左衛門が行い。船で辰の口から城中へ入り、表、中奥、大奥と汲み取り
をします。この「葛西舟」は、別名「汁こぼし」と言って大変威勢が有りました。川では、同じく威勢の良い魚河岸の連中に出会いますが、流石に河岸の連中も逃げたそうです。
城で食べる沢庵は全て糞尿のお礼のものであった。
江戸市中の糞尿は5段階にランクが決められていた。城中のはランク外です。
最上等は、大名屋敷の屎尿、「きんばん」と呼ばれていた。
尾張徳川は、中野の名主堀江氏。彦根井伊家は世田谷の名主大場氏。
のちには、藩収入を増やすために入札制になり財政に貢献した。(1739年頃)。
「町肥」
吉原の屎尿は高評価であったが、それでも中ランクであり、馬の背に2樽を付けた1駄を単位として1か月30駄、
1年360駄で6両(60万円)が相場だった。
「きんばん」なら8両から11両していた。
最低のランクは、小伝馬町の牢屋敷。碌なもの喰ってないからしょうがないでしょう。
裏長屋の共同便所も争奪戦の場所となった。
10世帯が暮らしていれば、2穴のトイレが有り、年額3両から5両で取引された。
頭に良い人は船で運ぶことを思いつき、それを千葉、埼玉の農家に売った。それほど、江戸の糞尿は人気が有り
争って農家は江戸の屎尿を求めた。
江戸と川越間を結ぶ運搬船もあり、江戸から糞尿を運び、川越から荷物を運んで商売をした。
それを、川越の人は「江戸の奴は、川越の恩を尻で返す」と言ってました。
「南総里見八犬伝」の滝沢馬琴は、7人家族でしたが、屎尿代を巡り百姓と揉めている。孫2人で大人一人分として数える馬琴に対して、百姓は15歳以下は何人でもゼロという回答で結局大根300本で妥結。翌年別の百姓に変えた。
古着屋の通り