男子たるもの一度は行ってみたい憧れの園。「大奥」
(俺だけか)?
家康の頃は、厳密ではなく境界は存在せず曖昧なものであった。正式に表れたのが、1618年秀忠の時代です。此の時、「大奥法度」を制定しました。これ以降、政府が仕事をする「表」と、将軍が仕事をする「中奥」、生活な場である「大奥」に区分され、時間が刻七つ(午後四時)になるとお錠口は閉鎖された。(別名七ツ口)ここには、「姫戸番」という女役人がいて、そこには、大きな秤が有りその目的は中に人間が入ってるかどうかを検査した。目的は男の持ち込みを禁止したもの。。
中奥。大奥と合わせて、部屋が200室以上があり、中奥と大奥の間には「お鈴廊下」
があり、将軍はそこから出入りした。そして、将軍が突然、大奥へということはなく、前日に通告が有り行われた。(お化粧とかありますよね。スッピンでしたら吃驚します)![]()
(無礼討ちになりそうです)
その後、春日局によって組織的な整備がなされていき、奥女中には通常旗本や御家人 などの武家出の女性が雇用された。しかしそれも建前で、時代が下るにつれて裕福な町人 出の女性が「行儀見習い」目的に奉公に上がることが多くなり、庶民の子女にとっては大きなステータスでした。(嫁入する時箔がつきます)。町人の場合、初めの頃こそは親戚や知り合いの先輩女中の口利きを頼ったり、旗本や御家人の家へいったん養女入りしたりという、迂遠な根回しや手続きを経て大奥入りしたが、後代になって武士と町人の経済力が完全に逆転すると、今度は旗本や御家人の方から持参金付き養女縁組みの話を持ちかけてくることも珍しくなかった。
明治期の大奥の女中の証言では、敷地が広大なため、夜回りに出ると狸、狐等が多く
悪戯をするので、とても怖かったそうです。
大奥の7不思議![]()
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① お犬 子供がしてる雑用係 残り物を食べさせたから。
② 宇治の間 五代将軍綱吉が鷹司夫人に殺されたとされ、幽霊が出る![]()
常時閉鎖されていた
③ 1代1箇所のトイレ 御台様専用のは深く掘り、1代汲み取りは無し。
見られたくないのを捨てていたという噂も?
④男性が居なくなる 火事などの非常時の際、救助に来た武士がいなくなる。
明暦の大火の時は、大名が行方不明。
⑤後ろ向きの駕篭かき 御台様や御年寄は、大奥内を通るときは乗物を使う。
その際、駕籠かきは貴人に足を向けないように後ろを向く。
⑥お清の中臈 将軍の手がつくと「おてつき」と呼ばれ(百人一首ではない)
運良く女を産めば「お腹様」男を産むと「お部屋様」とよばれ
正式な「側室」となった。もし、更に子が将軍になると、将軍
生母として絶大な権力を振った。5代将軍綱吉の生母。桂
昌院は、その最たるもので「従1位」になってる・
⑦4人1室 将軍が泊る際は、二人きりではなく、布団を両側に並べて
添寝?をした。添寝の二人は翌朝、御年寄に戦果報告![]()
14代将軍家茂は御台所・和宮親王と極めて仲が良く、勿論側室も無し。
1864年1月、家茂が明日京都に上る前夜。家茂と和子は寝所を共にし、御台所は
眠い家茂を寝かせず別れを惜しみ、京の土産として「西陣織り」をねだりました。
家茂は快く引き受け、そして京へ行きました。その後、二条城で家茂は亡くなり、
家茂の遺言を受けた家来は、土産の「西陣織り」を御台所に届けました。受け取っ
た御台所は無言でその品を持って自室へ引き下がり、形見となった西陣織りをひし
と抱き締め長いこと泣き伏していたそうです。
後代、和宮親王の墓を調査したら、中に西陣織が入っていたそうです。 (ノ_・。)。
蛇足ながら、側室の数はといえば、さすが家康。20人くらい、力を示してとトップ、次いで11代将軍家斉(オットセイ将軍と呼ばれた)。あとは至って少ない、いない将軍も。
徳川慶喜さんは側室2人。慶喜は写真が好きでしたので側室の写真も残ってます。
慶喜さんは、明治の御赦免以降、文京区春日に住んでいた、敷地三千坪、建坪千坪、常時50くらいの使用人がいました。慶喜さん・或いは御住みになってた家に関しては、お孫さんが本も書いてあり、なかなか興味深いものが書いてあります。
では、大奥の組織図を。(千人から三千人)
御台所![]()
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御坊主 御中臈 御年寄 上臈
50歳前後の 若手の上級役人 俗にいうお局(若いですよ) 御台様の 側近
尼姿。将軍の御用 側室候補 大奥の権力者 家格高いが力無し
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御切手 御錠口衆 御祐筆 御次 表使 御小姓 御三之間 呉服之間
面会人 大奥出入口 書記 諸道具 外交官 側近 水湯燃料の 衣類調達
監視役 の管理 管理 管理
これよりお目見え以下
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御仲居 御火の番 御使番 御末 お犬 部屋方
調理担当 火の元管理 大奥内の 雑役 年少組 高級職員の(多数いた)
文書。伝言 力仕事 私的使用人
御末 雑役の仕事です。井戸汲みや、駕籠かきの仕事で大変ですが、2,3年かけ卒業すれば、元御殿
女中ということで羽振りをきかし通るのです。小笠原流の行儀作法も御殿言葉も見よう見まね
でなんとかなり、大奥を知らない庶民には眩しく見えたそうです。体が大きく、丈夫でしたら合格
だったそうです。
高級奥女中は、身支度が一日の仕事。
。 毎朝風呂へ入り、糠、黒砂糖、ウグイスの糞
で各々各3回磨き、手伝いの女中の手をを借り化粧。
午前中一杯は化粧にかかりっきり。夕方又、風呂へ。(ふやけないのでしょうか)
風呂は沸かすのでなく、前に樽(有馬樽の名で有名)で湯をドンドン入れ、湯加減を見て入った。
埼玉・川口の寺に奥女中の使用した「駕籠」が保存されてます。立派な加工の入った豪華なものです。
大奥も、明治維新の時、崩壊し無くなった。
でも、書いていると面白いですね。次から次へと興味が湧いて、慶喜さんは比較的資料があるので良いです。仲が良かった勝海舟さんとの交流・逸話とか出てきます。昭和5年の頃でも勝家との交流があり、
お孫さんの日記に雛祭りの話等が残ってて微笑ましいです。
築地 今の築地中央卸売市場

