家康入府後50年後、ようやく江戸城が完成しそれに伴い城の範囲が明確になり、堀と旗本、譜代大名の屋敷で城を囲み盤石となった。しかし、その後、明暦の大火が襲い
(1657年)、もう一度計画の見直しを強いられた。もはや、徳川政権は盤石となり城を
警護する必要もなくなり、幕府はこの大火をきっかけに都市計画の改造に伴い、又、大藩の大名は居住性の良い住居を求めて城から離れて郭外に移転した。又、幕府も城の周りを類焼から防ぐ火除け地、幕府の施設を作る必要があったため郭外への移転を奨励、又、避難所となる下屋敷を下賜したため、これがため余計江戸の郭外への拡大が一層進んだ。これにより、諸大名は、上・中・下の機能の異なる複数の屋敷を持つようになる。
上屋敷 城にもっと近い位置に面し、藩主およびその家族、藩の役所となった。
中屋敷 前藩主、世継が入った。ただ、中屋敷を持った藩は、半数程度。
下屋敷 郊外や運河沿いにあり。別荘。国許からの米、国産品の貯蔵庫。
他には、蔵屋敷、町屋敷、町並屋敷もあり、多様な機能をもつ屋敷が増えた。
江戸は火災が非常に多かったため、焼失の度にかかる費用が莫大で、段々屋敷の意匠も簡素になった。
ここで大変重要な役職が発生しました。それは江戸留守居役です。各藩とも優秀なる人材を送り藩の危機を回避しようととしました。この役目は非常に重要で他藩との折衝・情報収集はじめ、特に幕府官僚(祐筆等)とのルートを作り、幕府の情報を察知し自藩に工事の下命が来ることの無いように根回し、交渉するのが最大の役目で交際費は潤沢に与えられました。(工事の命令があると、巨額の何万、何十万両の金がでていき、又、借金まみれになり藩士から、禄借り上げの名目で金を取り上げますから)
大名は広い敷地を生かし、独自の大名庭園を造った。池の周りに休憩所となる茶屋を置き池が回遊する。いわゆる回遊式庭園を造り、社交の場として将軍、大名の園遊の場でもあった。乗馬、狩りも行われた。有名なのは、六義園、浜離宮がある。
尾張藩の下屋敷は13万5千坪もあり、その内の8割を回遊式庭園が占めた。(現在の新宿区大久保)。(塀の長さは900M)ジョグ
に最適ですね。
又、大名屋敷で有名なのは、赤羽橋に在った久留米藩有馬家上屋敷は、屋敷内に
国許から水天宮が勧請し祀られ、周りの風景が優れてたため夏の夕涼み、冬の雪見の名所となり庶民の参拝・逍遥の名所となり、景観は絵にもよく描かれた。
他には、丸亀藩京極家の金毘羅宮も有名。
違う意味では、熊本藩細川家中屋敷。赤穂義士の切腹の場所となった。
又、薩摩藩の蔵屋敷では、幕末、西郷隆盛と勝海舟との会談が行われ、江戸城無血開城の舞台となった。
このような屋敷の維持は大名にとって藩の財政に非常なる負担を常時かけ、藩の支出の7割まで占めるようになり、ますます侍の懐は厳しいもの(紙衣を着るー紙でできた服)となっていきます。
こうした施設も戦争の空襲により殆どが焼失し失われた。
薩摩藩中屋敷

