2024年2月7日
父の住んでいる県では無く、私の住んでいる県で有名な癌患者専門の病院で入院することになり、主治医の先生に父の癌の状態、今からの治療の進め方などの話を聞きに行った。
父はこの時既にステージ4だった。
小細胞癌と言う癌で、肺にできる悪性腫瘍の肺癌だ。
顕微鏡で見ると丸くて小さい細胞で構成されているため、そのように名付けられているらしい。
進行が早いため、もう少し病院に来るのが遅れていたら、いつ死んでもおかしくない状態だったと言われた。
なので、入院してすぐから検査、抗がん剤治療がはじめられる。
1回目の入院は、初めての抗がん剤なので様子見期間と、全身の検査など色々あるので2週間。
その後、2回目からは、様子を見ながらではあるが1週間ごとの入退院を繰り返すことになった。
そして、最後は自分がどうしたいかを考えておいて下さいと。
ギリギリまで治療がしたいか、緩和ケアのホスピスに入院したいか・・・。
私は、はじめの「ステージ4」の所からショック過ぎて話がほとんど入ってこなかった。
母は私が20代の時、乳がんで亡くなった。
「癌は死ぬ病気」が私のイメージだった。
母も亡くして、父も居なくなってしまう。
絶望感でいっぱいだった。
頭を鈍器で殴られたような、頭がぐわんぐわんしていた。
主治医の先生からの話を終えて病室に戻った。
父は「もうやりたいことは、もう全部やりつくしたから、もういつ死んでも良い。」と言った。
父も母を癌で亡くし、友人も亡くし「癌は死ぬ病気」だったのだ。
私は掛ける言葉が無かった。
いや、言葉と言うより、何も考えられなかったし、その後、どうやって家に帰ったかも覚えていない状態だった。
家に帰って、とりあえず、耳に入ったと思われる病状を思い出し、貰ったプリントを見ながら記憶を呼び戻し、どうにかこうにか妹に報告した。
妹も「ああ、そう」と、私と同じで言葉が出ないようだった。
妹も癌のイメージは同じだった。
暫く真っ暗闇の気持ちが続いた。
病院は、コロナが緩和されたと言っても、まだまだ制限があり、週に3回決められた曜日で、1日3人まで、家族以外の見舞いは許されていなかった。
父は、癌の事を家族以外に知らせる気は無かったので、この制限は全く問題なかった。
私も浪人中の息子の受験が近かったし、病院も微妙に遠かったので、2日に1回の通院は、後から思えば有難かった。
そして、父の闘病生活がはじまった。