民族のあり方、国家のあり方、宗教のあり方、地域のあり方、思想のあり方、人間関係の有り方、福祉のあり方、こうした既存のものに対して根本的にあり方が問われている時代になってきた。この時、桎梏になるのが既存の苔むした憲法を頂点とした法体系である。何かの改革、改善をしようと思えば、この法体系が、そして法を名目にして構築されている行政組織と人間集団の凝り固まった岩石のような堆積層との調整が足かせとなっている。本当に、これが一番に難しい。社会体系の網に、こびり付いたシミとゴミとネットリとした堆積物だ。これを取り除くのは至難である。だから、辛抱できない人は過激に走る。ぶっこ壊せばいいのだろう。

 だが、暴力で何が生まれているのであろうか。戦争は暴力の組織化された闘争でしかない。銃や戦車やロケットで生まれる国家もあるかもしれないが、所詮こうした国は軍隊でしか守れない。軍事独裁国家にしかならない。自由や民主主義、平等な社会を生み出せない。銃で地位を築いたものは必ず銃で反対者を押しつぶしてしまう。これは一度、武器を手にした者の宿命である。神の掟みたいなものだ。銃と麻薬は同列である。自由や平等は武器ではない。あくまでも無形の精神世界の約束事である。

 時間がかかるかもしれないが、銃で何かをしようとする人間が孤立するような世界を作り出されないといけない。暴力、武力を行使すれば、罪なき人々を必ず犠牲にしてしまう。国家が武器を生産している限り、人類の安らぎはない。遠い話のようだが、これこそ人類の繁栄を目指すためのイデオロギーと言えるだろう。領土という概念で争うことこそ思想の劣化でしかない。国境で争うなど、愚の骨頂だ!