そもそも権力とは、どういったものなのか。この定義は簡単である。権力は物ではなく、人の集団なのだ。国会議事堂ではない。皇居でもない。議事堂は権力を象徴する一つの物でしかなく、権力そのものではない。権力とは強固な人間の塊(かたまり)をいうのである。政治学者や法律学者が規定する文言でもない。つまり、一定の固まった集団が権力なのだ。これに対して個人は無力なのだ。固まった人間の集団と一人の個人が対決したならば、いくら腕力があったとしても個人の力では太刀打ちできないし、殴り殺されてしまう。集団と個人の対決となれば、個人はあまりにも無力でしかない。

 古代から議会制民主主義の現代まで権力は永遠に続いてきた。この長い歴史の中で権力は複雑に分かれて、人間の塊、凝固物を形成してきた。人間の集団といっても、弱い集団もあれば、名目だけの集団もある。だから、歴史の発展過程で、より強固な集団が弱い集団を支配して人間の塊を整備してきたということだろう。

 不満分子や諸集団を抑え込むために警察や治安部隊が育成され、やがて常備軍となっていく。規律ある人間集団が合理的に生み出されていくわけである。また、危険とみなされた人物を物理的に閉じ込めておく牢屋も完備されていく。それだけでなく、より多くの大衆を納得させるために法律を整備して裁判制度も高度化されてきた。意識的に同意された人間集団がそれぞれの役割を分担して国家というものが形成されてきたわけである。

 警察組織、教育組織、軍事組織、裁判組織、日常生活を管理する行政組織、意思決定をすための議会組織など、こうした組織はつまり人間の集団によって成り立っている。国家とは人間の意識的な塊なのだ。このことを理解し、認識する必要があるだろう。何故こんなことを突然に言い出すのか。私はたまたま魯迅の『阿Q正伝』増田渉訳(角川文庫)を読んでいた。この本は青春時代から何度も読んできたが、人生の晩年になって再度読み返してみた。すると弱者は人間のより強い集団によって殺されてしまうのだと感じた。魯迅は、このことを言いたかったのではないか。

 弱い個人から考えると、集団的人間の意見が一人の代表的指導者の見解となって重くのしかかってくる時、個人は生命の危機を意識するようになるのではないか。難しく考えるのではなくロシアのプーチン大統領を例にとれば、即座に分かるはずである。北朝鮮の金正恩体制なども代表的な象徴である。巨大な軍事パレード、道路両脇で旗ふる人々、全体を眺めて満悦する指導者、ここにあるのは人間集団の強固な塊(かたまり)だと言えないだろうか。