須賀敦子は昭和4年生まれで、同世代の私の母が子育てに忙殺された人生だったことを思うと、それぞれが辿った道の違いには感慨深いものがあります。須賀は日本と欧州の間を行き来しつつ思索を深め、60歳になって次々に珠玉の作品を発表しました。

 

12の短編の中でも表題作の「ヴェネツィアの宿」は、その文章が特に流麗で鮮やかです。ヴェネツィアでの文学シンポジウムに出席した一日の話しです。空港到着から会場へ、関係者との談論を経て遅い夕食、暑さもあって身体の不調を感じて中座し、フェニーチェ劇場前のホテルに向かいます。

 

その途切れることのない時間の流れが美しい文章で綴られています。劇場で行なわれているガラ・コンサートの模様が外に流されていました。広場を横切りながら、そしてホテルの天井裏の部屋に入って小窓を開いて、その音楽を聴きながら父親のことを思い出すのです。

 

何と味わい深い作品でしょう。ヴェネツィアには冬の終わりに、カーニバル(謝肉祭)が果てた後のがらんどうになったような雰囲気だった時に行ったことがあります。その時目にした光景がこの作品に喚起されてありありと浮かび上がって来ます。