【徳川家斉(とくがわいえなり)】城桧吏


安永二年~天保十二年(1773-1841)
父は一橋徳川家二代当主・徳川治済、母は治済の側室おとみの方(慈徳院/お登美、お富)おとみは元江戸城本丸大奥に勤めていた奥女中で、治済に見初められ側室となった女性。幼名は豊千代。天明元年(1781)、将軍家治の世子となり正室の島津寔子と共に江戸城西の丸に入る。正室寔子(篤姫/)16人の側室に55人の子女を儲けている。一説に強精薬のオットセイの陰茎の粉末を愛用したとこから後年「オットセイ将軍」と呼ばれた。天明六年(1786)家治の薨去に伴い十一代将軍の座についた。
前将軍の寵臣・田沼意次を更迭し、陸奥白河藩主・松平定信を老中首座に据えて、いわゆる『寛政の改革』を行わせた。尊号事件などにより定信が失脚して以降は幕府の実権を握ったが、財政窮乏は深刻化していった。対外的には外国船が近海に出没。内政面では天保八年(1837)の大塩平八郎の乱など都市の争乱に悩まされた。同年四月、将軍職を辞し隠居したが、以後も幕政に関与した。将軍在任は半世紀以上にも及び、歴代将軍の中で最長である。
天明二年(1782)元服 従二位権大納言
天明七年(1787)征夷大将軍/正二位内大臣兼右近衛大将
天明九年(1789)御婚礼(島津重豪女-寔子)
文化十二年(1815)東照宮二百回御神忌
文化十三年(1816)任右大臣
文政五年(1822)任左大臣従一位
文政十年(1827)太政大臣宣下
天保十三年(1842)一月三十日薨去(続徳川実記)
<一月七日説有り)二月贈正一位
上野寛永寺 厳有院殿御相殿
(厳有院殿霊廟勅額門/現存/重文指定)

謚号 文恭院殿


第一霊園内 浚明院殿(家治)左隣
<桃色の十が現存の厳有院勅額門>
拝殿等は戦災で焼失。常憲院勅額門と厳有院勅額門とそれぞれの水盤舎、宝塔(墓碑)は焼失から免れた。現在の位牌所は再構されている。
❇生母 治済側室於登美
明和年間 江戸城本丸奥勤 安永元年治済に乞われ側室となり同二年豊千代を生む。岩本内膳正正利女 岩本氏は田沼氏と同様、吉宗の将軍継承に随従した紀伊系新参幕臣の家柄で初代正房以来田沼氏と近しい間柄。田沼意致の一橋家家老の意味がよく解る☝️
慈徳院殿善教成大姉 贈従二位 上野凌雲院葬
❇御台所 右大臣近衛経煕養女 松平(島津)重豪女 寔子/茂姫/篤姫
寛政九年従三位 文政五年従二位 同十三年従一位 天保八年大御台様 弘化(1844)元年薨去
広大院殿起譽妙勝貞忍大姉 芝増上寺葬
⭐側室と子女は別項
この家斉の系統が令和7年まで連綿と続いている。