神様を、いかにしたら感じることができるのでしょうか。

 神様に似たアダムとエバが人類の父と母になったならば、その姿を通じていつも神様がいらっしゃることを、歴史を通して認知できるはずでした。もしそのようになったとすれば、神様に対して疑うようなことはできなくなるのです。堕落しなかったならば、いつでも見ることができ、呼べばすぐ現れるようになっていたのです。そのような基準になったならば、誰が神様はいないと否認するでしょうか。否認することができないのです。

 「神様がいる、神様がいる」というのは言葉だけではないのです。原理を通じて主体と対象の関係を中心として見る時に、神様は不可避的にいなければならないという立場ではなく、神様は、私が考える前にいらっしゃったのです。私のすべての感覚、私の一切を主管する天ではないか、という立場なのです。

 それを認識することが、何よりも重要な問題です。知って認識するのが原則ではなく、認識して知るようになっているのです。
 私たちは、寒ければ寒いということを、知って感じるのではなく、感じて知るのではないですか。これと同じように、神がいらっしゃるなら神がいらっしゃることを、皆さんが感じなければなりません。細胞で感じなければなりません。
 その境地が問題なのです。言い換えれば、体恤的立場をどのように私たちが確定するのかという問題、これが問題なのです。

 統一教会の原理は、神様は無形の絶対的主体として、二性性相の中和的主体としていらっしゃる方だと言います。二性性相であられる神様自身の分性的実体としてアダムとエバを造り、彼らが成長して愛を中心として横的に連結されるとき、縦的な立場で中心になろうとされたのです。それは何のことかと言えば、アダムとエバが成熟すれば、神様の男性性相はアダムの心の中に、神様の女性性相はエバの心の中に入っていくということです。

 だからといって、神様が分かれるのではありません。そのような二性性相の主体としていらっしゃる神様なので、アダムとエバの心の中に臨在することができるというのです。

 
                 (天聖経 P58~59より)

 
 神様を感じるというのは、言葉でどうのこうのと言うことはできないので、体験が必要だということです。神様を意識した生活を続けていると、ふとした瞬間に感じられる時がやってくるのかもしれません。





          
 



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