アダムとエバの堕落は、神様にどれだけの衝撃を与えたのでしょうか。

 純粋な本質的な愛をもった神様の前に、理想的対象として描いていたアダムとエバが堕落して落ちたとき、神様の心は、どれほど悲しかったことでしょうか。どんな人間よりも極めて悲しかったことでしょう。極めて、極めて悲痛だったことでしょう。その内容が深く価値的な内容であればあるほど、悲惨の中の悲惨だというのです。そのような父なる神様が失った子を再び探し出すために、復帰の道をたどっていかれたのです。

 父母が愛する子をそれほどまでに信じているのに、子が裏切ったならば、信じていたのに比例して父母の受ける衝撃と苦衷、そして悲惨さは、言葉ではとても表現できません。また、命を懸けて互いに愛し合っていた人が裏切り、排斥し、不信するならば、やはり言葉にできないほど悲惨です。そのような立場で身もだえしながら受ける苦痛は、経験した人でなければ分かりません。言葉だけでは理解できません。このことは、世の中のことを見れば分かります。

 それでは神様は、どうして悲惨になったのでしょうか。神様は漠然とした神様ではなく、具体的な神様です。私たち人間とは、最高の関係をもった神様です。神様が喜ぶことがあったとすれば、それは人間と共に喜びで出発し、終わりのない永遠に向かって進み続けられる出発の起点をもつことです。ところが、その出発の起点を人間によって失いました。それがアダムとエバの堕落です。

 人間の悲惨な姿を日々、時々に見つめられる神様のその心情は、いかばかりでしょうか。自分の息子が不具者となり、王子、王女の栄光をたたえるべき存在が肥だめのようになり、地獄に逆さまに落ちたとするならば、全知全能だという神様の威信はどうなるでしょうか。絶対的な神様の威信はどうなりますか。顔を上げることができるでしょうか。

 
                 (天聖経 P148~150より)

 
 信じていたのに裏切られた時の悲しみ、それは経験してみなければ分からないでしょう。
 中途半端に信じていたのなら、裏切られた衝撃はそれほどでもないのでしょうが、100%信じ切っていたなら、相当な衝撃です。裏切られたときに傷つきたくないからといって、中途半端に信じてくれる神様ではなく、絶対的に信じてくださっていた神様でした。





          
 



ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村