しかし、イエスが親しく言われたように、あらかじめ備えられた宴席に招待を受けた客たちは一人も応じなかったので、やむを得ず町の通りに出て、彷徨する乞食どもを呼び集めなければならなかったのである。
 このように、招かれざる客をしか迎えに出られぬイエスの悲しい心情から、ついに、「わたしにつまずかない者は、さいわいである」(マタイ一一・6)という審判のみ言が吐かれたのである。
 洗礼ヨハネは当時のユダヤ人たちが、あるいはメシヤ、あるいはエリヤ、あるいは預言者であると考えるくらいに立派な人であった(ルカ三・15、ヨハネ一・20、21)。
 ところが、いくら立派な人であっても、自分(イエス)につまずいた者には何の幸いがあるだろうか、という間接的な表現を通して、洗礼ヨハネの運命を審判されたのである。
 それでは、洗礼ヨハネはいかなるつまずきをしたのであろうか。
 それは、既に上述したように、彼は一生涯従い、仕えるべき使命があったのを果たすことができなかったということである。
    

                (原理講論 メシヤ論P202~203より)

【感想】
 つまずいて 使命果たせぬ 洗礼ヨハネ
 
 洗礼ヨハネは女の生んだ者の中で一番大きな人物であったと言われています。
 生きてメシヤを直接証する立場だったからです。
 しかし、イエス様につまずいてしまったのは、最大の失敗でした。
  
 

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