子供も変わるが、
親も変わる。
うちの父は、
おもしろいくらい、変化が見える。
本質は、
きっといつまでも変わることがないけれど、
まとう雰囲気は、
きっと、
少しずつ、少しずつ、
私たちが変わっていくように、
変わっている。
たぶん、
色んな選択肢が、
あったんだろうと、思う。
今に至る現在は、
きっと、無数に末広がっていく、
選択肢のある一つ。
でも、選んだのは、父だ。
そして、私たち、家族。
ある時期、
いつだったかはっきりわからないけれど、
ある時期から、
最後の決まり文句が、
「人生楽しめよ」
って言葉になった。
今までの変遷が、形になって、目に見えたのは、
そのとき、ぐらいから。
「人生楽しめよ」って、
私が口にしても、
馬鹿にすんなよ、というところだろう。
十年後の私が口にしても、
まだ、足りないだろう。
そういうたぐいの言葉だと、思う。
二十年後、
まだまだ、きっと、足りない。
時間を重ねればいいってものではないけど。
見えてるものは、
本当に一部だと思う。
見えてると思っているものは、
本当に一部だと痛感する。
見えてないものの方が、大きくて大きくて、
大きすぎて、当たり前だから、
違和感なく、
目の前の小さな的に、
集中なんてしてられるのだと、そんな風に思う。
言葉だってそうだ。
後ろに在るものが巨大すぎて、
影響ありすぎて、
それで初めてその場の言葉となって、
伝え、伝わる、というのに、
口から出るその小さな的は、
小さいゆえに間違うことなく、疑うこともなく、
当然のように、当たる。
当然だ。
でも、
たぶん、後ろの途方もなく大きなその存在の空気は、
言葉を通して、
その場の言葉、雰囲気、臨場感として、
お互いわかってる。
意識しないけど。
だから、感動、ってのも、ある。
何かにあてられたのような、そんな時も、ある。
なにが言いたいかというと、
「人生楽しめよ」
って言葉に、
この年になって、
今になってやっと、一気に、あてられたってこと。
その人が歩んできた道のりがあって、
黒も白も灰色もグラデーションして、全部包んだ、
そんな色の、
「人生楽しめよ」。
人は、
物語を生きてるんじゃ、ないんだ。
ただ、生きてるだけなんだ。
ストーリーがあるわけじゃないんだ。
ただ、生まれただけなんだ。
「物語」ってのは、きっと、
別の人が、別の時に、後から、
つくるものだと、そいうものだと。
良い人だろうが、
悪い人だろうが、
だからなんなんだ、
全部くるまなくても、
統合しなくても、
分別しなくても、
時に悪い人でも、時に良い人でも、
とにかく、その一瞬を生きて、
生き続けてきて、
今ここにたどり着いて、
それでまた、ここから、生きていく、
終わりに向かって生きてく人なんだ。
そういうことか。
あぁ、そうか。
と、
思った。
のも、たぶん、あと。
後から。
物語は全部、後から、言葉に、
なるもののようです、ね。
だから、
そこにその瞬間、真実なにがあったのかなんて、
誰にも自分すらわからなくて、
だから、
得たものすら、定かではなくて、
でも、目に見えない定かではないものを得る人間というものは、
なんだか、いいものですね、と、
思った。
のは、まぁ、今のこと、です。
「人生楽しめよ」
といわれて、
なんでか身が引き締まる思いがしたんです。
『人のせいにするなよ、
楽しく生きろよ。』
そう聞こえたなぁ、と、
今思うのです。
今のこと。