私が、原始仏教経典の『阿含経典』を知ったのは、28歳の時に(新興宗教)阿含宗に入会したからです。
当時の阿含宗は、観音慈恵会(かんのんじけいかい)を名乗り、阿含宗前身の時代でした。
当時管長の桐山靖雄氏は、『変身の原理』・『密教超能力の秘密』等という書籍を出版し、超能力をアピールしていましたから、全国から若者達が能力開発を目指して集まっていたのです。

教団が阿含宗を名乗り、桐山氏は能力開発より因縁解脱を説くようになり、修行法として『阿含経典』から採用した「七科三十七道品(しちかさんじゅうしちどうぼん)」を提唱するようになりました。

阿含宗は、『阿含経典』を依経として前面に立て、管長は自らが取り上げた(漢文)阿含経典のコピーを会員に渡し、自らその解釈を弟子達に説法していました。最初期の、阿含宗時代の光景は当時弟子だった私にとって忘れられないものです。

当時の私は、「それは本当か?」という疑いの目を持ちながらも、「実際どうなのか?」を確認するために、自分でも原始仏教経典の解説本を購入し勉強しました。

私にすれば、阿含経を学ぶことによりゴータマブッダの直接の言葉を知ることに繋がった意味は、とても大きかったのは事実です。
ただ、他会員は阿含経に熱心だったかというと、大いに疑問がありました。元々入会動機が能力開発でしたから、経典云々には関心が無い会員が大多数であったと想像します。
道場内で、学問的な(阿含経の)話をしている人間を見かけたことが無かったからです。

インドの、バラモン教から派生したゴータマブッダの仏教思想に触れ、私は(いつかは)仏教の聖地インドに行きたいと心から願っていました。
写真で見る北インドの地は、私の住む北海道の風景とダブるところがあり、親近感を持っていたというのもその理由に入ります。

ただ、当時のインドは日本から見たら相当に遅れているという感じでした。全てが遅れているし、生活全般が便利ではなさそうで、何か「ばっちい」感じがしていました。
因みに、「ばっちい」=「きたない」の幼児語であると、『笑える国語辞典』に出ています。

神秘の国インドに行き、「この地で、ゴータマブッダが法を説いたのだ」と実感すれば、更に経典を深く理解出来るようになるのではないか、という期待感もありました。
勿論、その期待感には何の根拠もありません。あるのは、歴史上のゴータマブッダが確かに北インド地方に生まれて、布教活動をしていたという経典の記述だけです。                        
私の手元に、『天竺への旅(てんじくへのたび)』という一冊の記録写真集があります。その本の出版は、1983年(昭和58年)4月8日で私が32歳の時に発売されたものです。
編集者は、当時駒澤大学教授の奈良康明(ならやすあき)氏、日本の宗教学者、評論家として有名な山折哲雄(やまおりてつお)氏などが名を連ねています。
(つづく)

※本記事は(その4)まで続きます。