仏教の思想では、なぜ「苦」を強調して説くのか?若い頃の私はさっぱりその意味が分かりませんでした。謎が解けたのは、ごく最近の事です。
たとえば、お通夜は何故夕方に行うのか?皆さんご存じでしょうか?
答えは、あの世というものは「この世と全く逆であるから」ということを聞いたことがありますか!。
それを聞いたことのある私は、実際に「あの世から帰ってきた人の話を聞いて合点が」行ったのです。
この回では、実際に3度の臨死体験を経験したという木内鶴彦(きうちつるひこ)氏の話を参考に、死後の世界の真実 を探求してみたいと思います。
「この世」と「あの世」が全て逆ならば、「あの世にあるのは、「楽」(らく)」しかありません。
世の中の99%の人が信じることが できないことは何かと言うと、それは「肉体は魂が宿る乗り物」ということです。なぜなら 木内さんは実際30分間心肺停止状態、つまり1回死んで生き返った体験からはっきり分かった事実だからです。
よく言わ れる臨死体験とは第1次臨死体験です「三途 の川」が見えたとかですね。木内さんが体験したのは、何度も言いますか30分もの間心肺停止・脳波も停止の完全死亡状態で。これを第2次臨死体験と言います。そこから生還した話な んです。で分かったことそれは魂が主体で肉体は乗り物、魂は永遠に生き続ける。 あくまで肉体は乗り物なので大事にしてメンテナンスしながら使う必要があるんです。肉体が乗り物で魂が主体であることが分かったら、運転手段である魂の本当の 気持ちに従って生きることが大事だということが分かります。大事なことですので、もう1度だけ言います。
魂の本当の気持ちに従って生きることが大事。肉体はあくまで魂が宿る乗り物なんです。「魂だけになっても今生きている意識と全く同じ」肉体が死んでしまった後、魂だけになるとどんな状態なのかなと言うと、今生きている意識と全く 同じなんです。そんなわけねえだろ。と・・・これは死んだ時、楽しく答え合わせしましょう。だからこそ一見肉体が死んでしまった時、「自分が死んでいるということに気づかないんです。」・・・ただ違うことがあります。それは「視点」 です。見えている目の位置です。自分の体を まるで第3者から見るような視点に変わるんですね。なので、あれあれという感じなんです。もし病室で自分が亡くなるとします。すると家族が泣いていたりするのが、そのまま見えるし、聞こえます。ただ「俺ここにいるし」なんて話しかけても相手に聞こえないんですね。死んだ直後、魂だけになっても目の前の光景が、そのまんま見えて、今ここにいる状態で今生きている意識と全く同じなんです。
ここで分かることは、肉体はあくまで魂が宿る乗り物だと言うこと。魂だけになり肉体を離れてみると、それまで自分自身を苦しめていた身体の痛みや不調から完全に離脱できると言うわけです。
そう考えると、「苦」というものが、この世限定の真理と言うことになります。
お釈迦様は、この世限定で真理を説き、「私の説いたことを念頭にしっかり生きて行きなさい」と色々な教えを説いている(だけな)のです。
ただ、確実に知らなければならないのは、一見肉体が死んでしまった時、「自分が死んでいるということに気づかないことです。」・・・ここを、気を付けなければいけません。我を張って「自分は死んでいない」と誤認すると、「行くべき霊界へ行くことが出来ず、自分の死を自覚するまでこの世を彷徨うことになります。」(場合によって・・・)
ただ違うことがあります。それは「視点」 です。見えている視点で判断して「自分の死を自覚する必要が」あります。
また、「魂だけになると、場所は瞬間移動」できる様になります。・・・物事を想念 しただけで自由にパッと瞬間移動することができるようになります。木内さんの お母さんはカクッとなって心臓が止まった 時「死んじゃった」と言った後、外に出て行った まま戻ってこないので、木内さんは、木内さんのお姉さんに電話でもしに入ってるのかなと 思ったそうです。するとそう思った瞬間、木内 さんは公衆電話の受話器を持ってダイヤルを回そうとしてお母さんの横に瞬間移動して横に立っていたというんですね。つまり 思った瞬間に移動したわけです。
そう考えると、(肉体が)死ぬと言うことは自由度が格段に向上すると考えられます。それらの事実を知った上で、何より「自分は死んでいない」と誤認してはいけないと言うことです。
(続く)
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