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papa

娘がヴェトナムに行った時のみやげ品

 

 10年前に母が他界して以来、ぼくに説教をする人間がひとりもいなくなった。

 娘がクリスマスに戻ってきた。
「パパわはぁ、お酒の飲みすぎ。タバコの吸いすぎ。、コーヒーの飲みすぎ。」
「野菜食べなさい。インゲン残すのやめなさい。みかん食べなさい。」
「もうお酒飲むのやめなさい。これで最後、残りは明日にしなさい。」
「夜更かしのし過ぎ、遅くまでフィルム見るのやめなさい。夜食の取りすぎ。悪い事のし過ぎ。」と母の霊が乗り移ったように説教をし始めた。

 もうだいぶ前、一時帰国して実家近辺の天神社まで、幼い娘の手を引いて散歩していたら、旧友にあった。
「パパってガラじゃねーぞ、おまえ。」と冷やかされた。
「うるさい、黙ってろ。オレはパパだ。」とやり返したが、
やっぱりちょっと恥ずかしいのでそれ以来、実家近辺で娘と出歩るかないようにした。

 娘が中学か高校の時、娘が同級生と秋葉原の「メイド・カフェ」に行ってみたいというから、
現代日本文化に触れるのも悪くないかも、とは思うものの、何かと物騒な事件もあるし、
外国育ちの二人で行かせるのも不安なので、店の前まで引率した。
 その時その界隈の客引きに、
「パパ、頑張ってるね。」と冷やかされた。援交でもしてるスケベオヤジと間違われたのかも知れない。
 それ以来日本では誤解されるので、娘と人ごみに出るのを避けるようにしていた。

 何を隠そう、正直に言うと、ぼくは幼少の頃、父の事を「パパ」と呼んでいた。

 なので、父が在宅の時、友達に家に来られるのは困った。注意しつつも、つい「パっ…」と言ってしまいそうになるからだ。子供時代のぼくはどちらかと言うと「腕白」で「乱暴」で服とかズボンとか顔とか手足とか泥だらけで、「パパ」と言う言葉を発するに、ふさわしい少年ではなかった。
 旧家のおぼっちゃま風でもインテリでもなかった。父も「パパ」と呼ばれる風体から程遠かったし、家庭環境もかけ離れていた。

 姉が幼稚園から戻ってきて、突然父の事を「パパ」と呼び始めたのがきっかけだそうで、
ぼくの生まれる以前の話で、ぼくにはもうどうしようもなかった話で、それでも、子供には子供の世間体と言うものがあって、苦情を唱え、一応ぼくの要求は一旦は受理されても、習慣に勝るものなしで、またいつの間にか「パパ」に戻っていた。

 まあ、フランスに来て長年住んでみて、嫌なことも良いことも数多くあるけど、ほとんど、忘れてしまっていたけど、今ふと思い出したことで、「パパ」は自分自身に普通に受けいられるようになって、今まさにぼくは「パパ」になり、それは、まあ良かったかなと思う。

 当然、母の事は「ママ」と呼んでいた。